このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
<主郭(本丸)石垣> 現在も往時の野面積み石垣が現存。隅角部は未完成の算木積み | |
【城史】 この城は天正2年(1574)、山名祐豊(やまなすけとよ)がそれまで本城であった此隅山(このすみやま)城にかわって築城しました。その名は落城した「子盗(このすみ)」(此隅)の名前を嫌って「有子」と命名したといわれます。しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡(いなば)へと逃亡し山名氏による但馬(たじま)支配は終わります。その後、織田系の大名が城主となりますが、江戸時代にはふもとに出石城が築かれ廃城となりました。 【現状】 標高321mの有子山山頂に主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。また、主郭の南東には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。石垣は織田系の大名により作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。 【山名氏】 山名氏は室町幕府において侍所の長官に任じられた、有力な大名の一人です。最盛期には全国66か国のうち11国を守護として領国支配をしていたことから「六分の一衆(ろくぶんのいちしゅう)」と呼ばれ、後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。但馬では、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。この山名氏の最後の本城が有子山城です。 ▼山頂の有子山城と麓の出石城 ※縄張図の★は中間地点(500m)となり、登城口から★まではほぼ真っ直ぐな厳しい急坂が続きますが、ここより右折れしてなだらかな道となり、ここまで登れば一安心です。訪城日=2018年3月。 (有子山城縄張図と文は現地説明板より。縄張図には一部追記) | |
(左)登城ルート。出石城稲荷曲輪脇の登城口からスタート。出石城へは、JR山陰本線「豊岡」駅→全但バスで約30分「出石」下車→徒歩5分。(中)出石城稲荷曲輪横の登城口(右)登城道。急峻な部分があり、登るより下るほうが要注意。 | |
【縄張図】 | |
最上部に石垣によって築かれた主郭(本丸)とその西方に階段状に続く曲輪(第二~第六曲輪)があり、また、主郭の東南に大堀切を挟んで千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。さらに周辺には石垣に用いられている石と良く似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる(縄張図と文は現地説明板を参照。一部追記) | |
竪堀 中間地点に行くまでの登城道途中に土橋があり、その両横には竪堀が残る。 | 井戸曲輪 中間地点と第六曲輪の途中にある曲輪。7段の石垣が築かれている。 |
第六曲輪の石垣 井戸曲輪から登って行くと最初に出会う石垣です。 | 第五曲輪(左)と第五曲輪(右) 左の一段高い部分が第五曲輪、その一段下が第六曲輪。このように主郭(本丸)まで、第四曲輪、第三曲輪、第二曲輪と階段状に曲輪が連ねている。 |
第五曲輪に残る土塁 | 第三曲輪の石垣(西辺) 左に行くと本丸、右に行くと千畳敷に至る。 ▶先に本丸を目指します |
第三曲輪石垣(北辺) 左側を登って第二曲輪から本丸をめざす。本丸は、左上の東屋が建つ石垣部分。 | 第二曲輪石垣と頂上は主郭(本丸) |
本丸石垣と虎口 | 本丸跡 東屋が建ち城跡説明板が設置。 |
主郭(本丸)に残る土塁跡 | 千畳敷跡から見た主郭(本丸)跡 千畳敷(手前)と主郭を隔てる間には、この城の見どころの一つである巨大な堀切が設けられている。 ▶次は第三曲輪に戻り千畳敷を訪ねます |
第三曲輪の石垣(西辺) 千畳敷跡へは、石垣右奥を左に曲がります。右奥石垣の隅部から南側に築かれた石垣の様子が右写真となります。 | 第三曲輪の石垣(南辺) 石垣右側の道を奥へ進むと千畳敷に至る。石垣の状態を見ると、往時の石垣なので、場所によっては、「孕(はら)み出し」の症状が起きており、その為に金網ネットで防護しているのでしょうか。 ※年代の経過とともに次第に石垣がゆがんで崩れそうになることがある。石垣の中央より下方部が外側へ丸く迫り出し、上方部は後ろへ下がる「孕み出し」という症状。 |
本丸と千畳敷の間の尾根を断ち切っている大堀切 南西側から見た大堀切。大堀切を挟んで左が主郭跡、右側が千畳敷跡。樹木等が伐採されて見学しやすくなっている。 | 千畳敷跡 城内最大の曲輪。千畳敷曲輪は石列によって3段に区画されていた。 |
本丸から大堀切越しに望む千畳敷跡 本丸と幅約30mの大堀切を挟んで配される千畳敷跡。 | 大堀切 北東側から見た大堀切で、左が千畳敷跡、右が本丸跡となる。 地域別訪問城に戻る |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |