このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

●浅尾陣屋跡全景
低丘陵(標高30m)に存在した浅尾陣屋

 浅尾陣屋

【所在地】 岡山県総社市門田
                

●慶応2年(1866)、長州第2奇兵隊の脱走兵約100人が備中倉敷の代官所を襲撃、その後、脱走部隊は、蒔田氏浅尾藩領にある井山宝福寺(総社市)に駐留。こうしたなかで脱走部隊は老中板倉勝静の居城である松山(高梁市)をめざして行軍を開始したが、途中で反転、浅尾陣屋を急襲し焼き打ちにした。

幕末の文久3年(1863)、浅尾藩主・第12代蒔田広孝(まいたひろたか)の時、江戸市中警備の功により1万石に高直しされて大名に列し、陣屋を門田浅尾村に移し(それまでは賀陽郡井手村<総社市>に陣屋を置いていた・井手知行所)浅尾藩とよばれた。

●遺構
現存土塀・曲輪・井戸

御台場跡から見た陣屋跡

【浅尾陣屋の歴史】  浅尾藩主・初代蒔田広定は、慶長八年(一六〇三)に、一万余石の大名となり、この総社の地を本拠とし、旧総社町の一部、備中国分寺のある旧三須村などが領地でした。  寛永十三年(一六三六)第二代定正のとき、弟の長広に領地の一部を分割した為め、一万石を割って旗本となり、以後、約二三〇年、旗本の時代が続きます。  幕末の文久三年(一八六三)第十二代広孝のとき高直しを許されて、再び、一万石の大名となり、旗本時代、井手の知行地を廃して、この浅尾の地に陣屋を構築しました。  元治元年(一八六四)の「蛤御門の変」において、蒔田広孝は、京都見廻役として、京都警固任にあたり、長州勢を撃退しました。このことが、遠因してか、慶応二年(一八六六)四月十二日に、長州第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら、浪士百余名により襲撃された。いわゆる「倉敷浅尾騒動」により、陣屋の大部分が焼失し、その後、十分な再建もされることなく、明治維新を迎えました。  この陣屋は、低丘陵上(標高約三〇米)にあり、山頂を占居して、山城の城郭構造の系流に属するもので、藩主の御殿を中心に、家中屋敷や、御台場、調練場等を配し、土塀(一部が残存しており、今回の復元の参考とした)等で周囲を固め、一定の城郭構造となっています。                         ※陣屋跡説明板より全文転載

「写真左上」 このような遊歩道(約370M)が陣屋跡を巡っている。
「写真右上」 石段を上がった所が下の写真場所。
「写真下」 浅尾陣屋跡碑、浅尾藩邸見取図、神社などあり、土塀が復元。

浅尾藩校集義館跡(手前は駐車場)

浅尾藩御台場跡

浅尾陣屋跡碑・復元土塀に至る遊歩道

▼現存する土塀の一部

▼復原された土塀(残存している土塀を参考にして復原)

『浅尾陣屋跡周辺図』
※国道180号線を高梁市に向って、「中央二」の信号を右折し、吉備線を過ぎて伯備線の手前右方向に陣屋跡があります。

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■浅尾藩馬場用水跡の遺構

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