このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

●堀によって囲まれた鎌倉時代の方形居館の姿がほぼそのまま残る。城域は、足利館跡に造られた寺の境内となっている。

●遺構〜館の周囲を取り巻いている水堀土塁

●図は現地案内板より転載。

■方丈と庫裡(奥の建物) 平成2(1990)年復原 方丈は、学生の講義や学校行事、また来客のための座敷として使用された。 庫裡は、学校の台所。食堂など日常生活が行われた所。

足利氏館(あしかがしやかた)歴史】
◆源義家(よりいえ)の曾孫、足利義兼(よしかね)によって鎌倉時代はじめに築かれたという。義兼は鎌倉幕府創設に尽力し重用された。その子孫も幕府の要職につき、鎌倉末期に当主となった尊氏が鎌倉幕府を倒して、のちに室町幕府を開いた。
◆二町四方の台形館で、四面をめぐる水堀と土塁がよく残っている。館跡は、鎌倉時代の地方武士の館の姿を今に伝える貴重な遺構。館内には、ばんな寺が建てられ、足利氏の氏寺として一族の崇敬を集めた。また、館の南方には「坂東の大学」と称せられた足利学校があり、全国から俊才が集まった。

<足利氏館水堀と土塁>

「足利学校の歴史」
 足利学校の創建については諸説あり、奈良時代の国学の遺制説、平安時代に小野が開校した、あるいは足利氏館を築いた足利義兼の創立ともいう。
 足利学校は多くの学問の殿堂であり、我が国で最も古い総合大学的な存在であったといわれる。また天文十九(一五五〇)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになりました。しかし、江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治五年幕をおろしましたが、足利学校の精神は現在に引継がれています。
 昭和五十七年「史跡足利学校跡保存整備事業」により、平成二年江戸中期の姿に蘇りました。

入徳門 寛文八(一六六八)年の創建。天保十一(一八四〇)年に入徳の額が掲げられました

▼境内

▼太鼓橋

▼東門(右奥)と水堀・土塁

▼太鼓橋(左奥)と水堀・土塁

足利氏館周辺図<史跡足利学校事務所発行リーフレットより>

日本最古の学校 国指定史跡
    足利学校

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左)学校門 入徳門をくぐった前方にあり、寛文八(一六六八)年の創建。足利学校のシンボルとして今日まで継承されている。奥に見えるのは杏壇門。
(左下)杏壇門の後方にある孔子廟 杏壇門は寛文八(一六六八)の創建。杏壇の名の由来は、孔子が弟子たちを教えたところに、杏の木が植えられていたことによるもの。
(右下)孔子廟(聖廟) 寛文八(一六六八)年徳川幕府四代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられている。

(右)裏門 学生や一般の人の通用門として使用されていた門。平成二(一九九〇)年に復原。後方に見えるのは方丈・庫裡。
(右下)庭園 池と築山からなる築山泉水式庭園。平成二(一九九〇)年に復原。
(下)遺蹟図書館 足利学校が廃校になった以後、明治三十六(一九〇三)年に開設され、書物を継承し現在に引継がれている。現在の建物は大正四(一九一五)年に建てられ、市重要文化財に指定されている。

足利氏館を廻る

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