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【歴史】
足守藩祖木下家定は、もと杉原家定と称していたが、実妹の「ねね」が豊臣秀吉の正室(北政所)であったので、秀吉の立身出世に伴って一族に所遇されて、木下、続いて羽柴を、そして豊臣の姓を名乗ることと、豊臣家と同じ菊花紋と五七桐紋の家紋を使用することも許されていた。秀吉の死後、慶長五年(1600)に起きた関ヶ原の合戦のときには2万5千石を領有して姫路城主であり、ねねを守護して中立の立場をとり、徳川家康の天下となった後の慶長6年(1601)3月に、備中賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封されて、足守藩を立藩することとなった。
足守陣屋
岡山県指定史跡
緒方洪庵誕生地
緒方洪庵(1810〜1863年)は、江戸時代後期の蘭学者、教育者、文化7年(1810)、備中足守藩士佐伯惟因の三男として、この地で生まれた。15歳の時、大阪の蘭方医、中天游の門に入って蘭学をはじめ、文政13年(1830)、江戸に下り坪井信道の蘭学塾に入った。また、天保7年(1836)には長崎に遊学し、オランダ商館長らから医学や西洋事情について学んだ。洪庵29歳の時、医業の傍ら蘭塾「適適斎塾(適塾)」を大阪に開き、福沢諭吉、大村益次郎、佐野常民、橋本左内ら多くの門弟を育てた。また、洪庵はオランダ人によって伝えられた種痘に成功した。そして、嘉永3年(1850)には足守藩主木下利恭の招きに応じて、足守の除痘館で種痘を施した。近隣を含めてその数500人に及んだと伝えられている。緒方洪庵には「扶氏経験遺訓」や「病学通論」など翻訳、著述が多数あり、近代医学への貢献は計り知れない。
この生家跡は、指定面積686㎡、中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍(へそ)の緒、元服の時の遺髪が埋められているという。<現地説明板より>
※
(岡山県指定名勝)
▼この邸は、江戸時代中期頃の、足守藩木下家2万5千石の家老職の武家屋敷で、長屋門、母屋、御成門(おなりもん)、内蔵、土蔵などがそろい、ほぼ完全な形態で残っており、県下唯一の貴重なものである。
(岡山県指定重要文化財)
▼陣屋の遺構
石垣の高さは約1.5m、堀の幅も約3mで、木下家は、徳川将軍家への配慮から、城は築かなかった。
●足守周辺図
【偉人を育んだ町】
▼近水園と吟風閣
▼配置図
<旧足守藩侍屋敷>
<陣屋跡>
足守散策マップ
<現在地に掲示の観光案内図より>
㊤江戸時代後期の商家建築
旧足守商家 藤田千年治邸
※土蔵
※玄関の間
式台をあがると、上床つきの8畳、右に折れて13畳(二の間)の広間、その上手に8畳(一の間)の座敷がある。
※母屋と庭
母屋は寄棟造、茅葺、総廂の平屋建で、正面は唐破風をもった玄関となっている。
書院の前には遠州流と伝えられる庭がある。
※御成門
藩主の来邸のとき使用した。
※長屋門入口
長屋門には右手に茶室、左手に中間部屋がつくられている。
家定が慶長13年(1608)に死亡した後、徳川家康が長男勝俊と二男利房の二人に、遺領を継ぐように命じたが、ねねが勝俊一人に相続させようとしたため、翌年に足守藩主木下家の領地は没収されて、浅野長晟が藩主に封じられた。
その後に長晟は和歌山藩主に転出して、足守藩領は幕府の直轄領となった。ほどなく、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後に、家康の幕下に属していた木下利房が再び足守藩主に封じられ、6年目にして足守藩主木下家は復活し、以後明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。
岡山 足守町並み
▼旧足守藩木下家陣屋跡
足守の城下町の中心には城はなく、屋形構(やかたがまえ)と称される陣屋の遺構が残っている。
<近水園>
利房は宮路山南東山麓のこの地に築造した藩主の居館の屋形構(御屋敷)を中核にして、藩庁や侍屋敷さらには町家の整備を図って、治所の建設に努め、5代藩主利貞のとき(17世紀後葉)に足守藩陣屋町の完成をみた。
明治維新後に屋形構の廃止された跡地には、文教施設の場として、旧制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに継承され、最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転された後、平成7年公園整備がされて芝生の広場に活用されるようになった。
(文は陣屋跡に立つ説明板<岡山市>より)
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