このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

【一宮城跡 概略】
<所在地=徳島市一宮町>
■形状と歴史
【形状】
 一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった

【歴史】
 
一宮城は暦応元(1338)年、小笠原(一宮)長宗による築城とされ、鮎喰川の清流を前に臨み、背後には重畳たる山岳を控える県内最大級の山城跡である。
 
 一宮氏の山城として整備されたが、天正10(1582)年、長宗我部元親の侵攻を受け、また、天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐時には、鮎喰川を挟んだ辰ヶ山に陣を構えたとされる豊臣秀長と長宗我部元親との攻防の舞台となった。同年、豊臣秀吉の命により阿波に封ぜられた蜂須賀家政は一宮城を居城としたが、翌年、徳島城に移ると徳島城の支城(阿波9城の一つ)として、家臣の益田長行に守城させた。元和元(1615)年の徳川幕府の一国一城令によって、寛永15(1638)年廃城となった。
 
 現在、標高144mの山頂の本丸を取り巻くように、明神丸、才蔵丸、小倉丸、椎ノ丸、水ノ手丸などの曲輪、堀や土塁が遺存し南北朝時代から戦国時代にかけての山城の荒々しさと、それを守っていた当時の武士の剛健な気風をしのばせる。現地点から約600mで本丸跡に至る。また、山麓の寄神社周辺は「御殿居」と呼ばれ、城主の居館跡であるとの伝承が残っている。
(文と画像は現地説明板より)


(現地案内板より)
一宮城は、東西700m、南北600mに及び、起伏に富んだピークごとに本丸、小倉丸、椎の丸、水の手など数多くの曲輪が設けられた。


城跡から見た鮎喰(あくい)川
■遺構
本丸に残る石垣

 現在では、標高144メートルの本丸跡に石塁が残る。

 その他、竪堀・空堀や明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、椎丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。

竪堀

曲輪跡

■一宮城跡周辺

道路(県道21号線)左側が一宮神社、右側が大日寺
 一の宮札所前バス停は、写真には写っていませんが、道路左側の旅館手前になる。


四国八十八ヶ所第13番札所の大日寺

一宮神社本殿(国の重要文化財)

一の宮札所前バス停
 一宮城登山口は、このバス停を右に入るとすぐ。
[交通アクセス]
JR高徳線徳島駅前バスターミナル4番乗場。徳島バスの神山線寄井行きにて約30分「一の宮札所前」下車すぐ。

一宮城跡を巡る
〜麓から山頂の本丸へ〜

(現地案内板より転載)

一宮城跡登山口


登山道

倉庫跡
 この城には倉庫跡が2ヶ所あります。ふだんは穀類や戦闘用の道具類を保管していた所です。両方とも登山道の要所に置かれていましたが、戦いの折焼かれたといわれています。ここは「ヤケムギ」とも呼ばれ、以前には雨の後などに炭化麦が出土していました。
(城内説明板より)


才蔵丸、明神丸への登山道

湧水
 城の周辺では所々に小さな湧き水がみられます。この湧水は最近のものですが、当時、山城では水の確保に苦労していたことが偲ばれます。


湧水周辺

堀切
 この堀切は上の明神丸から続く尾根を鉈(なた)で切ったように山を切り崩して作られています。堀切によって才蔵丸は孤立した曲輪となっています。


才蔵丸虎口

才蔵丸跡


城内説明板より転載

才蔵丸と明神丸の間の堀底道

門跡
 左に行くと本丸跡、右に行くと明神丸へと至る。


明神丸からの眺め

(上)帯曲輪と後方奥は本丸跡
 帯曲輪は、曲輪の側面や城の周りを帯状に細長く囲む曲輪。この帯曲輪は本丸と明神丸を結び、城を守るための大切な曲輪となっていた。
(下)本丸跡図(城内説明板より)
     

城内説明板より
上記掲載「一宮城跡本丸跡」図の現在地から見た本丸石垣

 一宮城は、延元3年(1338)小笠原宮内大輔長宗によって構築、城主は、小笠原・一宮・長曽我部(ちょうそかべ)氏を経て、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)公のとき、元和元年(1615)一国一城令により廃城となる。

 天然の地形を利用したのみならず、構造もすこぶる精巧堅固で阿波の名城に数えられている。

本丸石垣
 この石垣は、蜂須賀家政が阿波入国時に徳島城の支城として改修された。


本丸石垣
 随所で屈曲する石垣は、すべて鋭角となっている。

本丸跡
 後方下は、城の炊事場であった釜床跡。

釜床跡(かまとこあと)
 北の斜面は石垣で築かれており、釜床には石組が1基残っているが、以前には数基並んでいた。


釜床跡から見た本丸石垣

同じく釜床跡から見た本丸石垣


城内説明板より
 小倉丸周辺は特に樹木が多く生い茂っており、土塁・竪堀・空堀などが残っていましたがよく確認できませんでした。


投石用の石
 城を守るためにはあらゆる方法が採られていた。投石もその一つで、本丸の南斜面には投石用の石が散見される。おもに川から拾って来た拳ぐらいの円礫である。

竪堀

堀切


空堀


貯水池と堤跡
 十分な水が確保できることが山城の必須条件です。この貯水池の下手には水を溜めるための土手が築かれていました。水は南の谷から筧(かけい)で引いたといわれています。
(現地説明板より)


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