このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

備中国分寺跡
【所在地】総社市上林   【指定】昭和42年2月15日

備中国分寺跡
 聖武天皇の発願によって全国に創建された国分寺の一つである。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建された。境内にそびえる五重塔は県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっている。
【歴史(現地説明板より)
 国分寺は国分尼寺(こくぶんにじ)とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741)に聖武天皇の勅願によって建てられた官寺(かんじ)です。備中国分寺の寺域は東西約160メートル、南北約180メートルで、周囲には幅1、2〜1、3メートルの築地土塀がめぐらされており、寺域内には南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が、配置されていました。昭和46年に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されていますが、金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その位置や規模などは明らかではありません。
 備中国分寺は、中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山(にっしょうざん)国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものです。  昭和61年8月 文部省・岡山県教育委員会

備中国分寺伽藍配置図(「備中国分寺跡」説明板より転載)
 伽藍配置図の五重塔から右に位置する建物である鐘楼、山門は下の写真で状況を把握できると思います。その前方の平坦部分が、回廊跡・中門跡・南門跡・築地土塀跡・井戸跡などで、発掘調査で確認された部分です。しかし、伽藍地には現国分寺の建物があって、中心部の調査はできていない。
備中国分寺五重塔(国重文)と、右は日照山国分寺の鐘楼と山門

 備中国分寺五重塔は江戸時代後期の建立といわれ、日照山国分寺は江戸時代中期に再興された。写真は、伽藍配置図の五重塔〜鐘楼〜山門部分を写したもので、備中国分寺跡は、国分寺の境内とその前方に広がる平坦部分(南門跡・中門跡・築地土塀跡・井戸跡・建物跡)となる。

南門跡・中門跡・築地土塀跡・井戸跡・建物跡
⇔南門跡(なんもんあと)
 聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々そして国を守ること(鎮護国家)を目的に建てられた備中国分寺の正門にあたるこの門跡には、三個の礎石が現存しています。

 そのほかの礎石は抜き取られていますが、礎石の下部に詰めていた根石が残っており、門の規模は間口五間、奥行二間であったことがわかります。
 門の両脇には寺域の南隅を画する築地土塀が東西方向へまっすぐ取りついていました。
中門跡(ちゅうもんあと)
 現存する礎石は一個だけですが、礎石を抜き取った穴と礎石の下に詰めていた根石が残っており、南門と同じく間口五間、奥行二間の門であったことがわかります。

 しかし、礎石の間隔が南門とくらべてやや広く、建物もやや大きかったと思われます。
⇔築地土塀跡(ついじどべいあと)
 創建当時の備中国分寺では、寺域の周囲に幅一・二〜一・三メートルの築地土塀が築かれていました。

 築地土塀のめぐる範囲は、東西約一六〇メートル、南北約一八〇メートルで、南辺中央に南門が建てられていました。
⇔建物跡
 ここには、四個の大きな堀立柱(ほったてばしら)をすえるための穴と雄大な柱の根本の部分が残っており、また柱穴のまわりには、建物の重量にたえられるよう一層一層ていねいにつきかためた版築層(ばんちくそう)も部分的に残っています。

 この建物跡は塔跡という説もありますが、はっきりしたことはわかりません。

現・日照山国分寺

▲現在の日照山国分寺

▲日照山国分寺の山門
山門前方(南側)の南門跡、中門跡などは発掘調査で確認されたが、それ以外の部分については、江戸時代に再興された現在の備中国分寺(日照山国分寺)があるため明らかにされていない。


▲表書院

▲庫裡(くり)〜岡山県指定重要文化財
庫裡・裏書院・経蔵の三棟が県指定重要文化財(建造物)に指定。裏書院は建物の中にある。


▲勅獅門


▲客殿

▲本堂

▲大師堂


▲経蔵(きょうぞう)〜岡山県指定重要文化財


▲創建時の建物礎石(奈良時代)

  岡山県の文化財に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください