このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
奈良時代、聖武天皇の発願によって各国に建立された国分寺の一つ。南北200m、東西180mの寺域に、南門・中門・金堂・講堂・僧房が一直線に並び、南東隅に塔を配置していた。主要な建物は平安時代末ごろに失われ、その後再建された建物もあったが、安土桃山時代には焼失したことが明らかとなっている。 |
塔跡に立つ石造七重塔(北から望む) 建物は現存しないが、七重塔の心礎の上に鎌倉時代初期のものとみられる高さ約3mの石造七重塔が立っている。後方は山陽自動車道。 |
史跡 備前国分寺跡 備前国の国分寺の跡であり、鎮護国家を願って奈良時代に全国に建てられたもののうちの一つです。正式名称は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)といいます。この寺の建立を発願した聖武天皇は、必ず好所に建立するよう命じています。 1975(昭和50)年に国の史跡に指定され、それに先立つ1974(昭和49)年の発掘調査では、南門、中門、金堂、講堂、僧房等の跡が確認されました。そして、これら主要な伽藍が南北方向に縦に一直線に並び、そこから東南の位置に塔が配置されている様子から、東大寺(国分寺)式伽藍配置が採用されていることも判明しました。全国の国分寺跡のうち、半数近くがこの伽藍配置を採用しています。 この備前国分寺跡は、推定の南門と推定の中門の間隔が狭いことが他の国分寺跡では見られない特徴です。また、柱をのせた礎石には加工の痕跡があまり見られず、自然の石をほとんどそのまま利用していたようです。このほか、創建時の軒先の瓦の文様に独特の特徴があり、注目されています。 当時、国分寺は「国の華」といわれ、文化の拠点としてだけでなく、福祉や教育の拠点としても賑わっていたようです。 平成15年3月 赤磐市教育委員会 (現地説明板より) |
現況 (訪問日/2011年2月) |
2011年(平成23年)2月現在、保存整備事業が継続中 | |
[備前国分寺跡の現況] | |
両宮山古墳(写真右)の西側が備前国分寺跡で、現在、史跡整備が進められている | 塔の整備事業 |
塔から見た金堂跡、講堂跡辺りの状況 | 備前国分寺跡(北西から金堂跡、塔跡辺りを望む) なお、備前国分寺跡から県道を挟んで南に仁王堂池があり、この付近が備前国分寺尼寺跡と想定されている。 |
備前国分寺跡から出土した軒平瓦 (赤磐市の山陽郷土資料館にて) | 備前国分寺跡から出土した壁土と鉄釘 (山陽郷土資料館にて) |
[備前国分寺尼寺跡] 【所在地】赤磐市穂崎 | |
(現地説明板) | |
仁王堂池(南から) 「仁王堂」池の後方は、県道27号と山陽自動車道となり、さらにその後方には備前国分寺跡、両宮山古墳が位置する。 | 県道27号からの仁王堂池 現在では、池と水田になっており、尼寺跡の存在はうかがうことはできない。 |
「交通」 岡山市街から県道27号を北上し、赤磐市に入って約1Kmほど行くとこの看板が立っています。 山陽自動車道の手前に立っているこの看板の先を左折し、山陽自動車道をくぐると備前国分寺跡となります。 岡山県の文化財に戻る |
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