このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■二の丸と堀を望む
二の丸は西の丸と東の丸で構成されていた。概ね西南隅二重櫓(復元)から大手門(復元)の左後方が西の丸、大手門から着到櫓(復元)の後方が東の丸となる。西南隅二重櫓後方の建物は文化会館。

豊後府内(ぶんごふない)城データ】
別 名    荷揚城
大分河口の「荷落(におろし)」の地に城を築いたので、縁起をかついで「荷揚城(にあげじょう)」と名付けた。
所在地大分県大分市荷揚町
    
▲豊後府内城周辺図(2010年1月現在)
【交通ガイド】JR大分駅から徒歩15分


▲東南から豊後府内城(南面)を望む宗門櫓と着到櫓の間に大手門が位置する。
地 形
種 類
別府湾に流れ出る大分川河口に築かれた平城
           

           ▲豊後府内城地図(城内説明板より)
※本丸と二の丸(西の丸・東の丸)を画す堀は、現在では埋め立てられ、外堀と三の丸は消滅したものの、二の丸(西の丸・東の丸)の石垣とそれを囲む堀は、ほぼ往時の姿を保っている。

 
▲埋められた内堀跡
かって府内城は本丸を囲む内堀を有し、ここは内堀の北西の端にあたる場所。堀跡の左方の石垣は天守台、右側の建物は二の丸(西の丸)跡に建つ文化会館と、その後方は二の丸(東の丸)跡となる。
築城年慶長2年(1597)から築城
築城者福原直高
文化財
区分
県指定史跡
遺 構
現 況
宗門櫓・人質櫓・天守台・堀・石垣が残る。
大手門や4棟の櫓(西南隅二重櫓・着到櫓・東南隅二重櫓・東北隅二重櫓)、廊下橋が再建。
       

       ▲人質を収容したといわれる現存唯一の人質櫓
豊後府内城の歴史
■府内城は1597(慶長2)年、福原直高により築城が始められ2年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代わった早川長敏も1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長7)年4重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1km、南北約1kmにおよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来あがりました。
■荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城(はくちじょう)とも呼ばれています。
■城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義(しげよし)の時に、非違をとがめられて断絶しました。代わって1634(寛永11)年、壬生城(栃木県)から日根野吉明(ひねのよしあきら)が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭(ただあきら)が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治4)年の廃藩置県まで、2万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保3)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は再建されませんでした。
                    
                   
                   (野面積みの古式な姿をとどめる天守台) 
■1871(明治4)年11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正10)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和37)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和41)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和20)年の米軍の大分空襲により焼失した5つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城址公園として市民の憩いの場になっています(城内説明板より)

 
近世府内城とは直接結びつきのない大友宗麟胸像が城跡中央に建つ

豊後府内城探訪スライドショー

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