このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡
知覧城跡
【所在地】鹿児島県南九州市知覧町
 
本丸(左側)と今城(右側)間の空堀。空堀後方は東ノ栫(ひがしのかこい)
曲輪間にはシラス台地を深く掘りこんだ巨大な空堀がめぐる。

知覧(ちらん)
 鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久8年(1197)薩摩国図田(ずでん)帳(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益(たいらのただます)が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久(ただひさ)が臨んでいました。

 その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世(ただよ)は南朝方に、地頭島津久直(ひさなお)は北朝に属して各地域を転戦しましたが、ともに没落してしまい、文和2年(1353)に足利尊氏が島津氏5代島津貞久(さだひさ)の弟佐多(さた)氏の初代の忠光(ただみつ)の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以降、知覧は佐多氏の領地となりました。

 室町時代初め、知覧は、そのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊(いまきいれひさとし)が押領して、島津氏8代目久豊(ひさとよ)に反抗していましたが、応永27年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄(しょうえい)自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城{かみこばじょう}とよばれました)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久(ちかひさ)に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。

 その後、天正19年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。

 元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は廃城となったものと思われます。

 知覧城はシラス台地のへりにできた侵食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。
(訪城日は2017年11月。写真と文は現地説明板より。写真は曲輪名を追記し掲載)


知覧城中心郭模型(鹿児島県歴史資料センター黎明館展示)
 一つ一つの台地のようなものが、土で作られた城の施設。城は標高約170m(比高30m)のシラス台地のガケを最大限に利用した東西約900m、南北約800m、面積約41万平方mの広大な敷地に独立した曲輪群を構成。麓の武家屋敷の母体ともなっており平成5年に約24㏊(全体約41㏊)が国指定となった。


知覧城写真模式図(現地説明板より)
 本丸をはじめとする中心郭(本丸・倉ノ城・今城・弓場城)をいくつもの城郭が取り囲んでいる。自然地形を巧みに応用した南九州を代表する山城の形態。中世山城の姿を現在に伝える極めて重要な遺跡である。


知覧城写真模式図(右上)の「現在地」付近の様子
 概ね登城口の左方向は東ノ栫、右方向は本丸となる。



現在地に建つ「知覧城説明板」
 
知覧城跡の中心曲輪<本丸・蔵之城・今城・弓場城>散策

  
【知覧城跡縄張図】
城の構造は、本丸・蔵之城(くらのじょう)・今城・弓場城(ゆみばじょう)などを中心とした曲輪群とそれを取り巻く東ノ栫(かこい)・式部殿城など
周辺の曲輪群から形成されています。城と城の間には深い空堀がめぐり、それぞれが独立しているのが特徴です。
城内にはL字状に曲がった枡形虎口(出入口)や土塁、やぐら台、横矢(よこや)など防御施設が築かれています。

(現地説明板に追記)


登城口(縄張図 登城口)
 ここから中心曲輪(本丸・蔵之城・今城・弓場城)の登り口に行きます。城内散策道は良く整備されており、随所に案内板も設置されていて迷うことなく巡ることができます。


空堀
 登城口から中心曲輪に至る登城道途中の空堀。


空堀(縄張図A)
 東ノ栫(左側)と今城(右側)間の空堀。曲輪直下の切岸は、ほぼ垂直に削られている。


空堀(縄張図D)
 今城(左側)と本丸(右側)間の空堀。

空堀(縄張図「虎口」付近)
 この虎口の場所から、左方向が今城・弓場(ゆみば)城、右方向が本丸・蔵之(くらの)城となり、各曲輪へ登ることができる。


枡形虎口
 本丸、蔵之城の曲輪群へと至る枡形虎口。

本丸(右)と蔵之城(左)間の空堀
 

本丸登り口(縄張図 B)
 堀底から本丸虎口に至る登り口。


本丸の枡形虎口

本丸跡
 後方は、防御を固めるため周囲に築かれた土塁跡。


蔵之城登り口(縄張図 E)
 堀底から蔵之城虎口に至る登り口。
 城の中心に位置する蔵之城は、平成13年(2001)から16年(2004)に発掘調査が実施された。掘立柱の建物跡や炉、虎口などの施設の跡が見つかった。遺物には中国やタイなどの陶磁器片がある。


蔵之城枡形虎口
 虎口Aは、現存する虎口で、真っ直ぐに侵入できないように折れ曲がっている。虎口Bは、発掘調査で発見された虎口。Aより以前に築かれたもので、直進して入城するようになっている。


蔵之城の掘立柱建物跡
 梁行(約9m)と桁行(約8m)の東・南・西側にひさしのつく建物跡と考えられる柱穴が出土している。柱の大きさは約15㎝~約20㎝ほどであることが発掘調査で判明。室町時代の建物跡と考えられる。
 後方は土の壁である土塁跡。もともとあった火山灰の地層を削り出して築いている。本来はもっと高かったと思われる。

 

弓場城枡形虎口(縄張図 C)

今城枡形虎口


武家屋敷群



知覧城は知覧麓の武家屋敷群から南西に約1.2キロ。

JR九州新幹線「鹿児島中央駅」(桜島口・東口)から知覧行きバスで約1時間20分、「中郡バス停」下車、徒歩約20分。




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