このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
「越前おおの結ステーション」から亀山に築かれた越前大野城復興天守を望む | |
【別名】 亀山城 【立地】 平山城(標高249m) 【築城年】 天正8年(1580) 【築城者】 金森長近(かなもりながちか) 【主要城主】 金森氏 松平氏 土井氏 【再建造物】 城門・復興天守(昭和43年再建。連結式望楼型2層4階・小天守2層2階・鉄筋コンクリート構造。内部は資料館として活用) 【遺構】 石垣 土塁 堀 【石垣】 野面積み 【文化財指定区分】 福井県指定史跡 【アクセス】 JR九頭竜線「越前大野」駅から「南登り口」まで徒歩約20分。登り口から天守まで徒歩約20分。なお、「越前大野」駅にレンタサイクルあり。 (柳廼社そばの南登り口に建つ再建城門) 訪城日:平成30年(2018)5月再訪城 | |
【沿革】 越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張を持つ平山城跡です。織田信長の武将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。 越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。 江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天守と2層2階の小天守・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み(のづらづみ)」といわれるものです。 江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。(現地説明板より) (現地説明板より) | 【概要】 大野城は亀山を利用して築かれた城で、軍学上では梯郭(ていかく)式に分類される城でした。亀山の山頂を削って平坦にして本丸を造り、大・小天守、天狗之間からなる天守群と塩硝蔵、武器蔵などを配していた。 さらにその東側の麓には二の丸や三の丸を造る「平山城」という形式でした。また、南・北・東の三方には人工の外堀をめぐらしました。東側の端には今も百間堀の一部が残されています。 (復興天守内展示資料に加筆) |
【金森長近公】 金森長近公は、1524年に美濃(岐阜県)に生まれ、幼名を五郎八可近(ごろはちありちか)といいました。18歳の時に織田家に仕え、当時8歳の信長の身のまわりの世話をしました。その後、今川義元との合戦で手柄をたて、信長の「長」の字をもらい長近と名を改めました。1575年に越前の一向一揆鎮定の恩賞として、大野郡の3分の2を与えられました。 長近公は標高約250mの亀山の頂上に越前大野城を築き、ふもとに城下町を建設しました。城下町の碁盤目状の町割りは400年以上経った現在も良く残っており、「北陸の小京都」と呼ばれています。1586年には、秀吉の命令で攻め落とした飛騨一国を与えられ、高山城(岐阜県高山市)を築き、城下町を建設しました。 1600年の関ケ原の合戦では東軍(徳川軍)に加わり功績を認められ、美濃国上有知(岐阜県美濃市)を与えられ小倉山城を築き、引退してこの城で生活し、1608年夏、京都伏見の屋敷で85歳の生涯を終えました。長近公は、どちらかというと優しくまじめな人柄で、戦いを好まず平和を愛していたようです。都市計画に秀でた才を持つだけでなく、茶の道に通じ、教養のある面も持ち合わせていました。信長・秀吉・家康と時代の支配者に順応して戦国時代を駆け抜けた武将と言えます。 | |
【亀山公園周辺案内図】 現在は史跡公園として遊歩道も整備され4ヵ所の登り口がある。 山頂には昭和43年(1968)に建設された復興天守が建つ。 (現地説明板より) | |
【越前大野城 復興天守】 2層4階天守(右)と2層2階小天守(左) | |
百間堀 学びの里「めいりん」東側に残る外堀の一部。 | 武家屋敷旧田村家の土居(土塁) 大野城三の丸の外縁には、外堀に沿って土を盛り上げた「土居」(堤防)が築かれ、外部からの侵入に備えていましたが、明治維新以降、外堀の埋め立て等に合わせて順次取り壊されてしまいました。田村家では、この土居を庭園の築山として活用していたため取り壊しを免れ、市内で唯一、この場所に姿を留めています。 |
大手門が建っていた辺りから復興天守を望む ここから城内に入って行った。右側は学びの里「めいりん」、突き当りの鳥居を奥に進むと「南登り口」となる。 | お馬屋池 境内の鳥居そばにあるこの池は、越前大野城の堀の一部が残ったもので、江戸時代に池の南側に馬場と厩舎があり、馬の飲用水や身体を洗うのに使われていたことから、お馬屋池と呼ばれている。 |
大野城二の丸付近 藩庁や御殿(藩主の居館等)のあった二の丸(グランドと周辺)は、現在、学びの里「めいりん」の敷地になっている。 | 百間坂 江戸時代、大野藩の侍たちが城の本丸へ行くには、藩庁から亀山の山頂に通じる百間坂を必ず登りました。今の百間坂以外の遊歩道は、明治時代以降に整備されたものです。 |
塩硝蔵跡 この場所に火薬などを保管する塩硝蔵(えんしょうぐら)という建物があった。塩硝とは、火薬の原料となるもので、「煙硝」や「焔硝」などと書かれることもあり、また、火薬そのもののことをさす場合もある。 | 武具蔵跡 武具蔵は、武器を保管していたと考えられる建物。武具とは、鉄砲(火縄銃)や弓、槍のほか、鎧などの具足のこと。 |
お福池 金森長近の正室・お福の名前が由縁となっている。 | 本丸の石垣 お福池から武者登りへと連なる石垣。手前の石垣上には小天守が建つ。石垣は当時のままであるが、本丸付近の石垣は復興天守建設以降に積み替えられた部分がもある。 |
本丸の石垣 小天守側(左手前)から奥の武者登りが築かれている間の野面積み石垣。 | 武者登り 天守への登り口。江戸時代の形態を残している貴重な石垣。天守へは折れ曲がった道を登って行く。 |
野面積み 越前大野城の石垣は、野面積みという自然石を加工しないで積み上げる16世紀後半の古い形式の石垣です。すき間に詰め石があるなど、外観は粗雑に見えます。しかし、水はけが良いため、実はたいへん堅固な造りとなっています。 | 駕籠道 天守への城主用の緩やかな石段。 |
天守台 | 天狗之間石垣 現在はここに復興小天守が建つ。 地域別訪問城に戻る |
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