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福知山城

明智 光秀画像模写】
<福知山城大天守閣(郷土資料館)にて撮影>
■福知山城は、京都府福知山市の横山丘陵先端の地形を利用して築かれた平山城。龍ヶ城と呼ばれ、東北に長くのびた丘陵の上に、本丸、二の丸、伯耆丸、内記丸が築かれ、東に由良川、土師(はぜ)川、法(ほう)川と自然の濠にかこまれ、西と南北に武家屋敷と堀をめぐらして城の守りを固めていた。天正7年(1579)、中世に造られた横山城を攻略した明智光秀は、ここに近世的な城郭を築き、城名も福知山城と改めた。丹波を平定した明智光秀は、福知山の城下の基礎をつくった。
■天守台から本丸にかけて今日残る石垣に、多くの五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの転用がみられる。明智光秀は、新城の築城にあたり、比叡山を焼き討ちしたあるじ織田信長にならって、丹波の旧権力が崇拝する菩提所などを破壊、そのシンボルである石塔類を石垣に使った。だが、光秀の福知山治世はわずか3年たらずであった。天正10年(1582)6月2日に本能寺の変を起こし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて死去した。その後、福知山城主は初代明智光秀を含めて8氏(杉原・小野木・有馬・岡部・稲葉・松平・朽木)が城主となっている。
■明智光秀
享禄元年(1528)〜天正10年(1582)。美濃(岐阜県)の守護土岐氏の一族と伝えられる。若年諸国を放浪後、織田信長に仕え京都奉行を務める。福知山城築城もこの時代。天正10年、本能寺の変をおこし信長を倒したものの、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れる。この年、光秀54歳、信長48歳、秀吉は45歳だった。

福知山城東側の福知山城公園の一郭・親水公園から本丸に復元された望楼型天守を望む

<福知山城と城下町>

   
   (福知山城下町絵図は明覚寺設置の説明板より転載・加筆)
    今は、伯耆丸(ほうきまる)上方に市役所が建ち、伯耆丸〜本丸下方はJR山陰本線が敷設。

 
 
福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。

 城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にあります。中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。

 丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(じしせん・税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。

 光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ヶ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます
(文は城内説明板より)


福知山城天守閣復元鯱瓦
<城郭プランと天守閣>

 
 福知山城や城下町の絵図は有馬・稲葉・松平・朽木時代のものが残されています。これらのうち、松平時代(1649〜1669)の絵図をもとに、具体的な様子をみてみましょう。

 城郭部は横山丘陵先端の地形を利用しています。東は法川を利用した大堀を、西は堀と土居を、南には堀切を、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する「総郭型」(総構え)の構造となっています。丘の先端に天守台と本丸を置き、二の丸・伯耆丸(三の丸〜現在市役所の南にある丘)が西へと続きます。南側の低地には「御泉水(ごせんすい)」とよばれる庭園と蔵・馬屋敷、その西側には内記(ないき)丸(西の丸)が配置されていました。このうち石垣を持つのは丘陵上の城郭主要部のみでした。再建された天守閣は大天守、小天守、続き櫓から構成されています。外観は3層ですが、内部は4階となっています。古文書や門・玄関の配置から、天守閣は西向きに建てられており、西から見るのが正面の姿といえます。
(文は城内説明板より。絵図は大天守閣蔵)

■復元建造物
<大天守・続櫓・小天守>
伯耆丸から望む大天守(西面)
 大天守左側に続櫓・小天守と続き、手前の白い平屋の建物は銅門(あかがねもん)番所。

 昭和60年(1985)に小天守と続櫓が、翌年に3層4階の大天守が、松平時代の絵図や天守平面図をもとにして復元された。

 銅門番所は、天守再建にとまない、本丸跡の現在地に移築。

伯耆丸跡と後方は本丸に復元された大天守


伯耆丸北側の福知山市役所

二の丸から見た大天守と銅門番所


小天守(手前)と大天守

法川(旧堀)
橋は福知山城公園から本丸へと至る昇龍橋

福知山城公園と本丸に建つ大天守と小天守
公園から昇龍橋を渡ったところに建つ白い櫓風の建物は福知山市美術館


登城路

本丸跡
右端の石垣は天守台、奥後方は銅門番所


大天守(鉄筋コンクリート造、竣工・昭和61年11月9日)
外観3層の望楼型天守。二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表わしている。内部は4階で、福知山市郷土資料館・産業館となっている


左から小天守、続櫓、大天守
小天守は2層2階。続櫓(つづきやぐら)を通して大天守に連結している


左から大天守、続櫓、小天守(東面)


小天守

小天守と続櫓


大天守から小天守越しに北方向を望む
城下通りと由良川に架かる音無瀬(おとなせ)

大天守から見る伯耆丸跡
ブルーシートのかかる樹木部分が伯耆丸跡、その右は市役所。後方がJR福知山駅

          
      (左)朽木家元祖稙綱座像(右)明智光秀画像〜大天守閣蔵       
■福知山城の遺構
<豊磐の井・石垣・銅門番所>
豊磐の井(とよいわのい)  本丸、大天守の東側にある井戸は、直径二・五メートル。五十メートルの深さは日本一を誇ります。 地下の水脈まで岩盤を掘り下げており、今も清らかな水をたたえています。
豊磐井について  井戸の深さは五十メートル(城郭内湛水井としては日本一の深さ)あります。この地表は海抜約四十三メートルですから、井戸底は海面下七メートルに達していることになります。  城にとって飲料水は最も大切な条件ですが機械のなかった時代に硬い岩盤をこれほど深く掘さくした労苦がしのばれます。 (城内説明板より)
福知山城石垣
 天守台から本丸にかけての野面積(のづらづみ)の石垣は、穴太積(あのうずみ)と呼ばれる積み方で、約400年もの歳月に耐えてきています。
たくさんの五輪塔や宝篋印塔が使われているのも特徴です。
福知山城石垣の転用石
(銅門番所の左横に展示)
 福知山城の石垣には、自然石と割石に混じって五輪塔・宝篋印塔などの石塔類が大量に使用されています。もともと供養塔等、他の目的で作製された石造品が石垣等に利用されたものを「転用石(てんようせき)」といいます。現在、転用石は石垣の中に残るもの、福知山城再建時の発掘調査により確認されたものをあわせて、500個余りが確認されており、そのほとんどが天守石垣付近に集中しています。

 福知山城は築城時に明智光秀が近隣から石塔を集めたという伝承があり、これは、石垣に利用する大量の石材が近辺になかったこと、築城に時間的余裕がなかったためといわれています。転用石の利用は石材の不足、短期の築城のためという理由の他に、旧地元勢力・権威の否定ともいわれていますが、城を守護するものという意識があったとも考えられています。

 転用石で最も多いものは五輪塔の一番下の部分である地輪(ちりん・方形)が全体の65%、次いで宝篋印塔の基礎(方形)が11%余を占めています。その他、わずかですが石仏、南無妙法蓮華教を刻んだ笠塔婆、石臼、灯篭などがみられます。年号などが刻まれている石もあり、一番古いものは延文4年(1359)、もっとも新しいものは天正3年(1575)で、いずれも明智光秀が福知山に入ってくる以前のものばかりです。これら転用石は光秀の福知山城築城の様子を伝える数少ない中世資料の一つであり、資料的価値の高いものです。
(文は城内説明板より)

本丸石垣下奥にもある石垣「転用石」展示場
登城路(右側・坂道)をUターンして石垣下を奥に行った所


石垣の「転用石」

銅門番所
 この建物は、福知山城二の丸の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、当時の面影をしのばせる城内の建築物。大正時代のはじめに天守台に移築され、さらに天守閣の再建に伴いこの場所に移された



銅門番所正面

銅門番所南面と石垣の転用石展示場

■福知山城下散策

▲明覚寺山門
やや細い部材で造られた軽快な高麗門。旧城門の一つと伝えられ、数少ない旧福知山城の遺構。近年修理が施されたが、形式はほとんど当初のままで、もとは東側に脇戸が付いていたと考えられる


▲明覚寺山門(内側)
<所在地>福知山市呉服

▲法鷲寺山門
内法が高く、豪壮な風格を持つ大型の高麗門。旧福知山城城門の一つと伝えられている。軒桁より上の部材は鬼瓦を除いて新しくなり、垂木も修理の際に変更されている。しかしながらに保存状態は全体的良好で、福知山城の遺構を今に伝える数少ない資料の一つである

▲法鷲寺山門(内側)
<所在地>福知山市下紺屋

※明治維新の直後、福知山城の建物はほとんど破却されたが、城門のいくつかが、明覚寺、法鷲寺等に移築され山門として残り、かっての城下をしのぶ遺構となっている。ともに福知山市指定文化財


▲この親柱は、京口橋の石材の一部を残したもの
京口橋は江戸時代から福知山城の京口門に近い法川に架かっていた橋。明治22年に土橋から石橋に架け替えられ、明治29年の水害後、現在地に移築。その後、石橋から現在の橋に架け替えられた

▲広小路通り
江戸時代この通りには、火災予防のため道を大拡張し火除け地として中央に幅2mの用水路があった
▼福知山城周辺図


■交通ガイド
JR山陰本線福知山駅から徒歩10分

写真左はJR福知山駅構内から望む福知山城大天守。

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