このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

福江城(石田城)
日本で最後に築城された城
県指定史跡(昭和41年9月30日指定)  国指定名勝(五島氏庭園:心字が池)
<長崎県五島市池田町>

横町口蹴出(けだし)門(二の丸搦手門)と外堀に架かる横町橋(石橋)

 五島藩主五島(ごとう)氏は江戸初期、それまでの居城であった江川城を焼失して以来、久しく石田陣屋(石田城の前身)で過ごしていた。幕末になり、五島近海に外国船(いわゆる黒船)が出没し始めると、五島藩は幕府に築城願いを出したが、約半世紀の間築城許可が下りなかった。しかし幕府はついに嘉永2年(1849)、「海岸防衛を厳重にせよ」と築城許可を下す。14年の歳月と工費2万両を使って、文久3年(1863)に福江城は完成した。石田の浜にちなみ石田城と通称される。

 城郭は、東西160間(約291m)、周囲740間(約1346m)、本丸、二ノ丸、三ノ丸等からなり、築城当時は三方を海で囲まれた海城であった。石垣は、いわゆる野面積みで自然石を積み上げている。海防目的で築城された城らしく、各部の要所には石火矢台場が設けられている。表門と裏門には櫓門が建てられていたが、今はその礎石だけが残っている。かつては、城の石垣は外海に面し、波が打ち寄せ、潮風に吹かれる松が風情をそえていた(現地説明板より)


東シナ海を外堀にした福江城
 外堀公園から望む二ノ丸東面の石垣と外堀。築城当時、この外堀は海であった。現在でも海水を取り入れており、海の満ち引きの影響を受ける。


野面積み石垣(横町口蹴出門西面の石垣)
 福江城の石垣は野面積みが主流であるが、御番門(表門)や表門(大手門)などの一部では「切込接ぎ」で築かれている。この場所の石垣は、隅部は切込接で他は野面積みとなっている。


石火矢台場(下の「福江城(石田城)跡案内マップ」の
 櫓を構えるべき隅部分には、海防のため砲台(石火矢台場)が構えられた。

 

櫓門の礎石
 横町口蹴出門(搦手門)を入って、枡形を右折れすると両端に櫓台が残り、櫓台(石垣)下には門柱の礎石が残る。主要な部分の石垣は「切込接(きりこみはぎ)」で築かれている。

 福江城(石田城)跡案内マップ
(現地説明板に一部追記)
御番門(表門)
水門
御築山橋
二ノ丸
表蹴出門
表門(大手門)
本丸
中奥角櫓
埋門
裏蹴出門(現在)
馬場
御隠殿(現在)
心字が池(現在)
横町口蹴出門(現在)
横町橋(現在)
台場
天守は築かれなかった

は追記
五島市立図書館
五島観光歴史資料館
福江文化会館
五島高校
外濠公園
武家屋敷通り
 五島氏の17代藩主五島盛定が大永6年(1526)に築いた江川城は慶長19年(1614)22代五島藩主盛利(もりとし)の時に焼失しました。その3年後の元和3年(1617)から工事が始まり、寛永15年(1638)に石田の浜に「石田陣屋」が完成しました。設計は唐津城主寺沢志摩守広高です。その後、30代藩主盛成(もりあきら)の時、外国からの脅威に備える為、嘉永2年(1849)に幕府からの築城許可を得て、文久3年(1863)に石田城(福江城)が完成しました(現地説明板より)

 「福江城案内マップ」の各遺構を巡る
<訪城日:2018年11月>

①御番門(表門)
 門を入って左折れの内枡形の構造で、当時は櫓門があった。現在は、市立図書館、五島観光歴史資料館の入口となっている。


①城内から見た御番門(表門)の石垣
 石垣は、「切込接」という、切って整形した切石と呼ばれる石を用いて、石と石の隙間を無くした積み方で築かれている。


②水門
 海に面した東側に築かれた舟入跡。手前の外堀は、当時海で水門は城内から直接海に出られる構造。後ろの城郭風の建物は、五島観光歴史資料館(左)と市立図書館(右)。

②水門
 城内側(市立図書館側)から見た水門内部。写真右上から海(今は堀)に出る事が出来る。


⑤表蹴出門⑥表門(大手門)
 表門を入ると本丸跡で、今は五島高校が建つ。表門も入って左折れの内枡形となる。この場所は五島高校の敷地内です。ここから先は入城しませんでした。


⑦本丸(めがね橋門)
 ここからも、橋を渡って本丸に入場できる。石垣の後ろは五島高校。


⑦本丸石垣と内堀
 左奥は、めがね橋門。写真には写っていませんが、右側に表門(大手門)が位置する。なお、写真の右側に連なる石垣群が右の写真です。

 

⑦本丸石垣と内堀
 右端が表門(大手門)になります。

 
⑧中奥角櫓 
本丸北東隅の石垣。五島観光歴史資料館横から望む。


⑨埋門
 五島氏庭園内から見た本丸石垣に残る埋門。周囲は野面積み石垣で囲まれている。埋門は非常時の脱出用などに使用された。


⑩裏蹴出門
 今は五島高校の門に利用されている。

⑩裏蹴出門
 本丸側から見た高麗門形式の裏蹴出門。
 

⑫御隠殿と⑬心字が池(国指定名勝)

 五島氏庭園内部。建物は藩主の隠居屋敷、庭園は林泉回遊式の日本庭園。


⑭横町口蹴出門
 高麗門形式の搦手門で、門と石垣、石橋が現存する。


⑭横町口蹴出門(城内側)
 馬が出入したため、蹴出門と呼ばれる。高麗門は本屋根より一段低い位置に、左右に小屋根を付けている。

⑭横町口蹴出門から見た内枡形
 奥の白い土塀の向こう側は五島氏隠殿と庭園。門を入って右側には櫓門が建っていた。右写真が櫓門の櫓台です。


櫓門の櫓台
 櫓門が建っていたが、今では櫓台と門の礎石が残る。車の駐車している場所は⑪馬場跡。

切込接の櫓台
 馬場側から見た櫓台。櫓台の右側に五島氏庭園入口(有料)があります。


⑮横町橋(石橋)

福江武家屋敷大道
 
五島市の福江地区は、五島藩の城下町として発展してきた。約400m続く石垣は、溶岩塊の石垣を積み上げ、その上にこぼれ石といわれる丸石を積み重ね、両端は蒲鉾形の石で止められ、全国的に見ても類例をみない造りとなっている。
 門は、ほとんどが薬医門とよばれる門構えになっている。


常灯鼻(じょうとうばな)
 灯台としての役目のほか、福江城を築く際の波よけのために造られたと言われている。

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