このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
■伏見桃山城跡周辺を訪ねる■ | |
【伏見桃山城周辺図】(観光案内板に一部加筆) 秀吉によって最初に築かれた指月山伏見城は、桃山町泰長老あたりといわれている。慶長の大地震後は、約500m離れた伏見桃山陵のある木幡山に新たに築城し直された。城下町は、城郭の西に町割を構成し、今では、京阪電鉄の伏見桃山駅、近鉄の桃山御陵前駅、JR奈良線の桃山駅がある。各駅から城跡まで徒歩20分前後。 | |
御香宮神社の表門 この門は、伏見城の大手門の遺構で、近鉄京都線「桃山御陵前」駅東側、大手筋に面して建っている。 | 神社内から見た伏見城大手門の遺構である御香宮神社表門。 |
表門(伏見城大手門)脇に立つ標識 | 表門(伏見城大手門)の上部 |
御香宮神社に置かれている伏見城跡残石 | 御香宮神社境内の御香水(ごこうすい) 「名水百選」に認定されている。 |
伏見奉行所跡の碑 近鉄京都線「桃山御陵前」駅の南、西奉行町の桃陵(とうりょう)団地の一角にある。伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地帯であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町と伏見港を整備してからである。 江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城の跡地への入口と港を監視する位置にある(現地説明板より一部抜粋) | |
伏見城御舟入址 土盛り上はJR奈良線、後方は伏見桃山陵。桃山町和泉辺りで、右方向に行くと桃山東小学校です。文禄年間(1592〜95)伏見城を築くのと並行して宇治川の河道を現在のように伏見城下へ迂回させたが、慶長の大地震後新しく天守閣を木幡山に造るに当たって、宇治川と山科川との合流点に御舟入(河港)を設けた。 その御舟入の北崖一帯は俗に「山里丸」と稱ばれる自然の風雅を愉しむ処で、その風景は牧溪(もっけい)の描く水墨画「烟寺晩鐘(えんじばんしょう)」にそっくりであったと言う。又、慶長8年7月、徳川家康の孫娘千姫が大坂城に在る豊臣秀頼のもとへ輿入れのとき、この御舟入から乗船した有様が諸書に記されている(現地説明板より) | |
伏見北堀公園 | 伏見北堀公園 水堀の一部と伝わる。 |
伏見桃山城運動公園〜この公園は、「伏見桃山城キヤッスルランド」(平成15年1月閉園)の跡地を活用して、運動公園として、平成19年4月に開設された。 | 伏見桃山城運動公園の城は、伏見桃山城キヤッスルランドの目玉施設として昭和39年に建設されたもので、遊園地の閉園後は伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されている。この場所は、伏見城御花畑山荘と推定されている場所で、かっての本丸の位置とは異なる。 |
■伏見桃山御陵(伏見城址)■ | |
大手筋から見た木幡山の伏見城跡 この道の先は、大手門、参拝道へと続く。 | 伏見城本丸跡に造営された明治天皇御陵への参拝道。 |
参拝道に展示の伏見城石垣 | 写真左の石垣展示場の説明板 |
明治天皇 伏見桃山陵 周囲一帯は宮内庁の管理地。 | 230段の石段 石段を登った先に御陵がある。 |
伏見城跡出土品<金箔瓦> (京都市考古資料館展示) | |
▼金箔軒丸瓦 | |
▼金箔軒平瓦 | |
▼金箔 棟飾瓦 | |
移築現存櫓 | |
福山城伏見櫓(重文) 伏見城松の丸東櫓を移築した櫓。 | 江戸城伏見櫓 宮内庁管理のため重文に指定されていないが、伏見城から移築された現存櫓。 地域別訪問城に戻る |
京都市伏見区桃山町古城山
伏見桃山城運動公園にて<平成21年5月1日>
伏見城は、天正20年(1592)豊臣秀吉が隠居所として築城し、徳川家康が再興した城。しかし、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和9年(1623)廃城となり、天守や櫓などは全国の城へ分与された。 |
■伏見桃山城データ■ | |
別 名 | 指月(しづき)城 木幡山(こばたやま)城 |
地 形 | 平山城〜山城 |
沿 革 | ■天正20年(1592) 豊臣秀吉は、聚楽第を甥の秀次に譲り渡すと、宇治川に近い指月の森の丘陵に隠居所として築城。文禄3年(1594)には本格的な平山城に造り替えた<指月山伏見城> ■慶長元年(1596) 慶長の大地震で倒壊したため、翌年、指月の森の東北の木幡山(現在の桃山・明治天皇陵域内)に大城郭を再建した<木幡山伏見城> ■慶長3年(1598)3月 秀吉が城中で逝去し、その後徳川家康が入城。 ■慶長5年(1600)7月 関ヶ原の戦いの前哨戦である「伏見城の戦い」で、西軍の攻撃を受け、城将の鳥居元忠は壮絶な討ち死にを遂げ、伏見城は焼失。 ■慶長6年(1601) 灰燼に帰した伏見城は、家康の命により、徳川の城として再建開始<徳川伏見城> その後、しだいに軍事的な重要性を失い、元和9年(1623)廃城となり、本丸天守は二条城へ、櫓は大坂城・淀城・福山城・江戸城へ移築された。 |
遺 構 | 移築門・櫓、石垣、堀 廃城後、徹底的に破壊されて跡形も無くなり、幻の城といわれ、地上の石垣なども解体され持ち去られた。 |
現 況 | 廃城後、城跡には桃や梅の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになった。伏見城本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営され、名護屋丸の南には昭憲皇太后の東陵などがあり、伏見城の主郭部分には立ち入りは禁じられており、御陵の参道と北堀公園(弾正丸跡・大蔵丸跡〜推定)、伏見桃山城運動公園(御花畑山荘跡〜推定)ぐらいしか見ることはできない。また、伏見桃山城運動公園には、旧伏見城建造物との関連はない模擬天守が建っている。 |
史実にない模擬天守
(伏見桃山城運動公園内)
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