このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 臥牛山(がぎゅうざん)
 古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ているところから、「老牛伏草山(ろうぎゅうふくそうざん)」とか「臥牛山」と呼ばれ、現在は一般に「臥牛山」と呼ばれている。北から、「大松山(おおまつやま)」「天神の丸」「小松山(こまつやま)」「前山(まえやま)」の4つの峰からなり、東北の一部が連なるほかは、概ねそそり立つ急斜面の断崖を要した自然の要害。

 明治維新後ただちに国有林に編入されたため、ほとんどが自然林として残り、多種多様な植物相を呈している。立地が岡山県の中部地域にあることもあり、南方系と北方系の植物が混在し、シダ植物以上の高等植物は、全部で133科927種が確認されている。

 動物も豊かな餌植物と地理的な条件から多種多様なものが混棲し、古くからニホンザルの生息が知られている。古い記録には猿谷(ましらや)の地名も残り、概ね全山が「臥牛山のサル生息地」として天然記念物生息地の指定を受けている。さらに、昆虫類も豊富で、全部で158科1695種が確認されている。

 重要文化財「備中松山城」などを含む国指定史跡、また、昭和50年に、岡山県によって高梁川上流県立自然公園・臥牛山特別地域としての指定を受けているほか、「21世紀に残したい日本の自然100選」の一つとして、県内では岡山市の百間川と共にこの臥牛山が選ばれている。さらに、名木のアベマキは「森の巨人たち100選」にも選定されている。臥牛山は、岡山県下でも数少ない原生林を残し、動植物の宝庫である。
(文は現地説明板より引用。一部追記し作成)

  臥牛山(高梁市内山下・標高480m)は、北から大松山、天神丸、小松山、前山の4つの峰に分かれており、中国自然歩道のコースとなっています。この一帯は臥牛山国有林で、高梁川上流県立自然公園特別地域に指定されるなど、多くの植物や動物たちを観察することができます。特に、南側ではモミやツガを上層木に持った臥牛山本来の森林を見ることができます。また、標高420メートルの小松山山頂には、備中松山城があり、天守閣・二重櫓・土塀の一部が国の重要文化財に指定されています。

日本の自然100選〜1982年、(財)森林文化協会と朝日新聞社が、身近に残る貴重な自然を未来に伝え残そうと「21世紀に残したい日本の自然100選」を募り、その中から100ヶ所を選定。1983年に朝日新聞紙上で発表した。
森の巨人たち百選〜林野庁が、次世代への財産として健全な形で残していくべき巨樹・巨木を中心とした森林生態系に着目し、国有林の中から代表的な巨樹・巨木を「森の巨人たち百選」として2000年に選定。選定条件は、地面からの高さ1.2mのところの直径が1m以上あり、地域のシンボルとして親しまれていることが条件。
日本100名城〜(財)日本城郭協会が平成19年に創立40周年を迎えた記念事業として、「日本100名城」を選定。日本が世界に誇る文化遺産であり、地域の歴史的シンボルである城郭が、広く市民から理解され、より充実した見学が楽しめるように企画したもの。
臥牛山のサル生息地〜国指定天然記念物(指定日:昭和31年12月28日)

 このような種々の指定を受けた理由として、臥牛山が長期にわたり人為的な影響をほとんど受けていないという事と、臥牛山の植物相が非常に豊富であるという事が挙げられる。

【交通ガイド】
(土・日・祝日)車の場合、城見橋公園駐車場に駐車し、城見橋公園駐車場から鞴峠まではシャトルバスの利用となります。車は鞴峠へは乗入禁止です。タクシーは可。シャトルバスの運行は、12月第3週から2月末までは運休。
(平日)鞴峠まで車で行けます。
JRの場合、備中高梁駅より鞴峠まで観光乗合タクシーが運行。乗り場は、駅を出て右側すぐの観光案内所前(ひとり片道420円)。運行時刻=9:50 11:20 12:50 14:20(2013年3月現在)

※鞴峠から備中松山城まで徒歩20分。備中松山城から大松山城跡まで約600m、徒歩30分。
 
日本の自然100選<臥牛山>



臥牛山の自然林
 臥牛山は花こう岩からできている海抜約480mの山で、小松山の山頂430mのところには日本の山城として一番高い備中松山城の天守閣がそびえています。その城をとりまいて、アカマツ、モミ、コナラ、シデ類、カエデ類、アサダ、カシ類、ヤブツバキ、アセビ、モチノキ、タブノキ、アベマキなどがうっそうと茂り、中国地方特有の森林のすがたをしめしています。また樹木が235種も確認されており、中国地方でこのように樹種の多いところは、他にはあまりみられません。 昭和63年には、林野庁によってレクリエーションの森・臥牛山風景林としての指定を受けている。
 ここからは、臥牛山内に残る貴重な自然について、各所に設置された説明板と周辺の様子を掲載します。

  



 

 

遊歩道登山口からふいご峠へ至る「中国自然歩道」途中にある休憩所。さらに、大石良雄腰掛岩もある。山内の遊歩道は「中国自然歩道」に指定されている
播州赤穂藩家老 大石良雄腰掛岩
藩主・水谷氏が無嗣除封(後継ぎ無しのため、お取りつぶし)となり、備中松山城は播州赤穂藩預かりとなった。受城使として大石内蔵助良雄が在藩。その間、大石良雄は城地を調査に登城の際、この石に腰を掛けて休息したと伝えられている

  

遊歩道沿いにそびえるアベマキと案内板。ここから少し北に行ったところに、大松山城跡と大池がある


アベマキの幹。幹に傷があり、根元近くには踏み入らないようにとの注意書きがされている

地上8m地点で二またに分かれる。アベマキは、岡山県の「巨樹老樹名木」に指定されている

樹種/アベマキ
推定樹齢/350年
樹高/30m
幹周/4.7m

アベマキの場所は、備中松山城から大松山城跡へ向かって約600m。徒歩約30分。遊歩道沿いにそびえる。

アベマキ(遊歩道左側の巨木)は、ブナ科コナラ属の落葉高木

  

  ◆昭和29年、古来より臥牛山に生息する野生のニホンザルに餌付けする計画が高梁市より立案され、11月には「臥牛山野猿保存会」がつくられた。昭和30年2月から餌付けが開始され、12月には「臥牛山自然動物園」として開園。翌31年12月28日に、この自然動物園を含む臥牛山のほぼ3分の2の地域が天然記念物「臥牛山サル生息地」として指定を受けた。

 ◆自然動物園の管理は、当初、高梁市が行っていたが、昭和39年6月からは民間会社に委託するようになり、数社が管理・運営に当たってきた。天然記念物の指定地域は、標高478.8mの臥牛山の西斜面(高梁川沿い)を中心とする国有林と一部民有地を含む地域であり、指定地のほぼ中央の小松山山頂から大松山にかけて分布する史跡備中松山城跡も含んでいる。写真は臥牛山南西側。
                             
 
◆この指定地域内の国有林については、その全域が禁伐地域に指定され、天然林の割合が74.8%と高く、中国地方では、数少なくなった暖帯自然林(樹齢100年以上)としても有名である。また、植物に限らず昆虫類も、その豊かな食樹・食草の種類によって、多種多様なものが混棲している。この動植物豊かな臥牛山の自然が遥か昔からニホンザルの生息を可能にしていたと考えられ、多数のニホンザルが生息している。しかしながら、餌付けによって頭数も増えており、当然のように猿害が問題となっている。臥牛山のサル生息地は、全国で最も市街地に近いものの一つであり、自然動物園の開園直後から猿害が問題となり、猿害対策は、天然記念物の管理の上で様々な課題と問題点を抱えてきた。

 ◆そこで高梁市は、天然記念物臥牛山のサル生息地のニホンザルについての保護・管理基本計画と保護・管理実施計画を策定し、サル生息地及びサルの適切な保護・管理を目指すこととした。この計画実施の手始めとして、平成3年12月から観光施設としての自然動物園を閉鎖し、臥牛山の自然環境の中で生息できる適正頭数の目標を100頭前後におき、この頭数に近付けるため、適切な給餌により個体数の自然調節を図ることとした。


 
かつては観光用に餌付けを行い「臥牛山自然動物園」として一般公開されていたが現在は閉鎖。今は、農耕地への出没を防ぐために、山にひきつけておくための給餌が、高梁市によって実施され保護管理をしている

 

「野ザルにご注意!」の看板が各所に設置されている。しかし、臥牛山に行けば必ずサルに会えるとは限りません。普段、遊歩道を散策している地元の方でもサルに出会うことは珍しい事だそうです。

小松山に建つ備中松山城の二重櫓(手前)と天守(二重櫓後方)。猿害により天守や二重櫓の重要文化財にも損傷がでるなどの被害が報告されるようになり被害防止のため、天守・二重櫓に電気柵が設置されている。この場所はサルの主要な泊り場のひとつであった。


大松山吊り橋と臥牛山(北東側)。吊り橋を渡った右手方向が大松山城跡。この吊り橋の谷底辺りにサルの群れが見られるそうです。

日本100名城<備中松山城> 

 
現存天守(右上)と再建された五の平櫓(中央)、六の平櫓(左)を南から望む

【沿革】
 鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭 秋庭三郎重信により臥牛山のうち大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、城の縄張は時代とともに変化するが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれる出丸が築かれていたことが記録に残り、臥牛山全域が一大要塞となっていたことがうかがえる。
 当時の城主であった三村氏没後も、毛利氏の東方進出の拠点として、また毛利氏が防長二国に退いてからは、備中国奉行 小堀正次・政一(遠州)により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っている。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えるが、現存する天守などは、天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。

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