このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国史跡 月山富田(がっさんとだ)城跡
【別名】月山城・富田城  【所在地】島根県安来市広瀬町  【城地種類】山城(標高197m)

【「花の壇」から望む月山山頂部】
花の壇後方は、山中御殿と軍用道の七曲り。月山山頂部には本丸・二の丸・三の丸が築かれ、石垣も残存。
山中御殿から山頂部への登山道「七曲り」周辺や、山頂部の樹木が伐採され遺構がわかりやすくなっている。

【月山富田城史】
 富田城跡は、島根県安来市広瀬町に残る、この地方を代表する広大な中世山城跡です。

 富田城の始まりは、12世紀の後半、源頼朝が出雲の守護として佐々木義清を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦いを繰り返しながら、因幡、岩見、備後など11ヵ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。

 しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ富田城に立て籠っていたにもかかわらず、富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。1600年関ケ原の戦いで徳川家に敗れた毛利氏は富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が富田城に入りました。

 しかし、山奥にある富田が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした(文と写真は現地説明板より)。

【縄張】
 富田城跡は中世山城址を代表する遺産として昭和9年1月22日に国史跡指定を受けた重要な文化財です。東西約1,200m、南北約1,200mの範囲に縄張された総面積約140万㎡の日本でも最大級の規模をもつ城跡です。

 月山山頂部の曲輪群を詰の城とし、山頂から西北方向に長く延びる尾根上に南から本丸・二の丸・三の丸・西袖ヶ平といった曲輪を連続して築いている。

 月山中腹部から西北方向に馬蹄状に延びる丘陵部があり、尾根部を大きく削平した曲輪群をはじめとして、腰曲輪や削平段、土塁、堀切、石垣等の多くの城郭遺構が見られる。

 山頂部と西北丘陵を繋ぐ基部にあるのが山中(さんちゅう)御殿である。

 富田城の登城道の主要ルートは、北方からの菅谷口、飯梨川(城下)方面からの御子守口、南方からの塩谷口が知られている。これら3ルートは全て山中御殿に繋がっている。さらに、山中御殿から山頂部の曲輪群は七曲りと呼ばれるつづら折れの道で結ばれており、縄張りの上から、富田城の中核的な曲輪は山中御殿といえる。

 山中御殿から分岐する支丘陵には、山中御殿から順に、花の壇、奥書院、太鼓壇、千畳平などと呼ばれる大きな曲輪群が連なっている(文と写真は現地パンフレット・説明板より)。



※2018年3月再訪問時、整備事業実施中でした。見学は登城口から本丸までできます。


整備事業によって山頂部、七曲り(山中御殿から本丸への道)周辺の樹木が伐採され遺構が良く確認できます。
下の写真は、花の壇から本丸を眺めた様子ですが、(左)は整備前の状態、(右)は2018年3月訪問時の様子。
     
花の壇は、花がたくさん植えられていたのでその名がついた。花の壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿との連絡が容易なことから、
指導力のある武将が暮らしていたと思われる。発掘調査により、多くの建物跡(柱穴)が発見され、柱穴をもとに2棟の建物が復元された。

【月山富田城順路図】

ここからは、順路に従って遺構を訪ねます。

太鼓壇(たいこのだん)
 尼子時代、太鼓で家臣に合図を送り、兵士の招集場所であった曲輪。

山中鹿介幸盛祈月(やまなかしかのすけゆきもりきづき)
 太鼓壇にある山中鹿介祈月像。主君尼子義久が永禄9年(1566)11月、毛利に敗れた後、尼子勝久を擁して富田城奪回、尼子再興を期して孤軍奮闘の活躍をしたが、天正6年(1578)7月、夢ならず備中甲部川阿井の渡し(岡山県高梁市)において毛利の家臣によって討たれ、34年の生涯を終えた。この銅像は昭和53年(1978)鹿介没して400年を記念して建立された。


建物が復元された「花の壇」
 山中御殿の北西に建てられた侍所で、発掘調査によって建物・堀などの遺構が明らかになり、一部が復元された。花の壇手前は、屋根で保護されている通路跡の遺構。その右側のV字型部分には堀切が残存。


花の壇の虎口
 折り返し虎口のようなここから、堀切、通路跡遺構露出展示、さらに山中御殿へと向かいます。


花の壇裏側の「堀切」
 左側が花の壇曲輪。写真には写っていませんが、手前に通路跡遺構が露出展示されている。

通路跡遺構露出展示
 正面の土層は、発掘調査によって見つかった往時の通路跡の断面を展示したものです。当時この通路が雨水や浸透してくる水などで崩れないように、約2mの高さで真砂土と粘土を14層に突き固めて頑丈にしていました。また、水はけを良くするため途中に粘土層を入れ工夫をしていました。このような作業を版築といいます。通路跡遺構の後方は、左写真の堀切。次は山中御殿に向かいます。


山中御殿(石垣で囲む部分)と後方は月山山頂部
 石垣の右端は大手門跡。訪問時、城跡整備事業中でした。




大手門跡の石垣
 以前、訪問した時の城跡整備事業前の写真です。

山中御殿大手門跡と山頂部の三ノ丸石垣
 大手門を上がったところに3000㎡あまりの平地がある。その昔、山中御殿といわれた建物のあったところで、上下2段にわかれている。富田城の最も重要な心臓部だった。本丸へは山中御殿を経由して七曲りの急坂を登らなければならない。

 
 整備中の山中御殿と大手門跡周辺

【山中御殿】

富田城の御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれている。月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、
大手口という主要通路の最終地点ともなっており、最後の砦となる三ノ丸・二ノ丸・本丸に通じる要の曲輪として造られた。まさに
山中御殿は富田城の心臓部であり、周囲には高さ5m程の石垣や、門・櫓・塀などを厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いだ。


山中御殿を巡る石垣
 石垣上には多門櫓が建っていた。


山中御殿菅谷口の石垣
 石垣角地には重層櫓が建っていたと思われる。このあたりの拡大写真が左下の写真になります。

山中御殿菅谷口周辺の石垣

山中御殿菅谷口の石垣
 七曲りから見た石垣


整備中の山中御殿大手門跡(城内側)

大手門跡周辺の石垣(城外側)
 右端が大手門跡


城郭の中核部分だった山中御殿跡

山中御殿/復元石垣
 ここは、山頂(本丸)への軍用道「七曲り」の登り口です。

【七曲りから眺めた山中御殿と周辺の様子】

(整備工事中のため工事車両が駐車)


七曲り登り口
 山頂まで約20分。登山道を舗装して山頂部の本丸に登りやすくした。

三ノ丸石垣を望む
 七曲りを登りきった所が三ノ丸跡。

【三ノ丸石垣】
 発掘調査によって良好に残っていた石垣が地中から検出され、整備では石垣の上段のみに石を積み足した。
    
 月山の山頂部には、最後の砦として本丸、二ノ丸、三ノ丸という曲輪が造られました。三ノ丸はその入口にあたる重要な曲輪でした。発掘調査により段状の石垣と、崩れ落ちた石材が確認されました。戦時に石垣の段状を多くの兵が通路として利用したり、敵を待ち構えたりするために段状に石垣を積んでいたのではないかと考えられます。三ノ丸跡へは、石垣の左端にある通路から登ります。


三ノ丸跡への通路

三ノ丸跡
 三ノ丸から南東方向に延びる尾根上に二ノ丸、本丸を築いている。


二ノ丸跡と復元建物
 発掘調査により、建物や柵、塀の柱穴跡が検出されました。そのうちの1棟からは備前焼のカメが3個発見されました。戦時に飲み水や食物を貯蔵するための建物だったと考えられます。


二ノ丸から本丸へ至る通路
【空堀に積まれていた二ノ丸石垣】
二ノ丸の周囲には石垣が積まれ、二ノ丸と本丸(手前側)の間には深さ約10mの空堀(堀切)が石垣で造られた。

【本丸から二ノ丸と空堀を望む】
本丸と二ノ丸の間には大規模な空堀(防御施設)が築かれ、最後の砦である本丸を厳重に守っていた。



二ノ丸から本丸を望む
 通路を上がったところが本丸跡。通路下は空堀。


空堀の底から見た本丸

本丸跡
 月山山頂本丸跡には山中鹿介幸盛記念碑が建つ。

飯梨川越しに見た整備事業中の月山富田城
 建物は、左側が道の駅「広瀬・富田城」、中央は安来市立歴史資料館。黄色のバスは、イエローバス(観光ループ)。
<アクセス>JR山陰本線「安来」駅からイエローバスで約30分。月山入口下車。

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