このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


『蒙古襲来絵詞』に描かれた元寇防塁


■生の松原地区の元寇防塁は、肥後国が担当して築造し、警備しました。当時の石築地(元寇防塁)と「弘安の役」の警備の状況を示すのが『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』(「竹崎季長絵詞」とも呼ばれている)です。
■二度の元寇に際し、筑前に駆けつけ、陸でまた海で元軍と戦った肥後国御家人竹崎季長(たけざきすえなが)の活躍を描いたこの絵巻物(上下二巻)は、13世紀末から14世紀初めの成立といわれています。上巻は主に「文永の役」(1274年)、下巻は「弘安の役」(1281年)の場面を描いています。
■下巻のはじめに、ここ生の松原地区の元寇防塁の前を、従者を従え、馬で東へ進む竹崎季長の姿を描いています。防塁の上には菊池武房をはじめとした肥後の武将が戦闘態勢で、海の方を見つめています。おそらく、博多湾に所狭しと浮かんだ元の軍船の動向を探っているのでしょう。季長は東の十郎川河口あたりで船に乗り、元船に攻撃をしかけるのでしょうか。
■防塁は八段程度の石積みに描かれ、色の違いで石材を区別しています。これは防塁を描いた最も古いもので、大変貴重な資料です。                               2000年3月 福岡市教育委員会(現地説明板より)
生の松原地区元寇防塁の修理・復元
■ここ生の松原地区の元寇防塁は、1968年(昭和43年)3月に発掘調査し、その後保存修理をして露出展示を行なってきました。しかし石材の劣化や一部崩れが見られるようになったため、今回その修理を行なうとともに、中央部約50mを当時の高さに復元しました。
■この地区は前面(海側)に石を積み上げ、後ろは土と砂を突き固めています。発掘調査の結果などにもとづき石積みは約2.5mの高さに、また頂部の後ろには一段下がった通路を復元しました。
■前面の石材は中央部付近から西側がペグマタイト(巨晶花崗岩)、東側が砂岩と使い分けされており、復元にあたっても同じ石材をそろえました。復元両端部は断面構造がわかるように仕上げています。なお、防塁後方はさらに南側に傾斜しますが、現状でとどめています。(文と写真は現地説明板より)

石を積み上げた前面(海側)の復元部分

後側に復元された通路
国指定史跡
 
元寇防塁
<石築地>
 

■13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、1274年、元は900艘の軍船と2万8千人の軍兵で博多湾に攻め込み、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。
■その後、鎌倉幕府は元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。
■防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用されています。防塁の高さは2.5〜3mほどと考えられます。
■1281年、元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役)。
■元寇防塁は、1931年(昭和6年)、市内7地区が国の史跡に指定され、保存されています。  (現地説明板より)

【史跡 元寇防塁】
 ■博多湾岸の東西に延びる史跡元寇防塁は、建治2年(1276)時の鎌倉幕府執権北条時宗が、当時世界の大半を征服して世紀の英雄といわれた元の国王フビライの日本襲来に備えて文永の役(文永11年・1274)直後九州の諸武将に命じて築かせた石築地(いしついじ・防塁)である。
 その高さは1.8メートルないし3メートル、幅1.8メートルないし2.4メートルあったといわれ、東は箱崎地蔵松原から西は今津長浜にいたる延長20キロメートルにおよぶ大規模なもので、2度目の弘安の役(弘安4年・1281)には、この防塁が、わが国の防衛上大きな貢献をなした。石築地は、わが国の歴史上からはもちろん世界史上からも重要な史跡である。

西新元寇防塁
「西新元寇防塁跡周辺図」

△生の松原の様子

△生の松原海水浴場と博多湾。小戸公園方向を望む

生の松原に復元された元寇防塁

生の松原に建つ元寇防塁碑

■長さ数十mの部分を掘り下げて復元展示されている西新の元寇防塁

この西新地区(当時の百道原)分担国は分かっていません。防塁の構造は粘土による基礎工事を行い、基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめています。石材の節約をはかった独特の工法となっています。

西南学院大学体育館横の西新元寇防塁跡
【生の松原元寇防塁周辺図】 ■修理・復元された元寇防塁へのアクセス 筑肥線「下山門駅」西側踏切をわたり、直進すると唐津街道(旧202号・信号名「生の松原東」)に出る。 海に向かって松林を通り抜け、海岸に出て舗装された道を右(東)に行ったところ。 ※「生の松原(いきのまつばら)」という地名は、松の枝を逆さにして戦勝を祈ったところ、松の枝が根つき生き返ったという逆(さかさ)松の伝説に由来するといわれている。
生の松原元寇防塁
アクセス〜地下鉄西新駅1番出口から徒歩10分
なお、西南学院大学構内にも元寇防塁が復元されていますが、建物内にあるため、公開曜日・時間は、月曜日〜金曜日・午前9時〜午後5時(土・日・祝日の公開はありません)となっています。

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△修理・復元された生の松原地区元寇防塁

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