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{祇園城見取図(城山公園案内板より)}
{一言メモ}
転封〜関ヶ原の戦い以後、家康は戦後処理という形で、転封・改易を実施した。転封とは所領を他国へ移すこと。敵対した西軍大名の大半を改易あるいは減封し、それによって空いた所領には、東軍で活躍した豊臣恩顧の大名を置いた。恩賞という名目で石高を加増する一方、中国・四国・九州といった遠国へ追いやった。そして関東周辺と東海道・東山道沿いの諸国には親藩・譜代大名を配置し、江戸の徳川家を中心とした領国支配体制の基礎をつくりあげた。さらに、大阪の役で豊臣家を滅亡させた後は、大阪を天領(幕府の直轄地)として、その周辺諸国にも、親藩・譜代大名を置き、徳川家による西国の支配体制を強固なものとした。
{祇園城の歴史}
●別名「小山城(おやまじょう)」。1148年(久安4)に小山政光(おやま まさみつ)が、思川の西岸台地上に築いたという。当初は小山氏の支城であったが、のちに本城となる。そして小山氏は、1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原北条氏の制圧とともに常陸へ逃れた。
●1600年(慶長5)、上杉攻略のため、徳川家康が大軍を率いて小山に進駐。ここに本陣をおいた。そのとき、石田三成の挙兵を知って、ここで諸将と軍議を開き、今後の対応について話し合った。上杉攻略を中止し、石田三成征伐のため大阪に向かうことを決めた。これは、まさに徳川氏の運命を決める重要な軍議であったといえる。世にいう「小山評定」である。1616年(元和2)、本多正純が城に入るが、3年後宇都宮へ※転封したために廃城とされた。
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