このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

祇園城跡
(写真左・下)
思川(おもいがわ)沿いにそびえる祇園城跡と祇園城(城山公園)を望む
 

城山公園(祇園城跡)入口
石段を上がった所が右の写真。


城山公園

祇園城見取図の現在地の場所
ここから奥へと曲輪・空堀・土塁・馬出等の遺構が展開する。


公園内の様子
曲輪と曲輪を結ぶ「ぎおんばし}
橋の下には空堀が築かれている。


本丸跡

本丸跡
桜の散り始めであったため、地面は雪が降ったような状態であった。

本丸跡の土塁遺構
土塁は古くは土居(どい)と呼ばれ、堤防状に盛り上げたもので、防備の主役であった。
1576年(天正4)秀綱(ひでつな)の代に、関東地方制覇を目指す北条氏の軍門に降る。城は、北条氏政(うじまさ)の弟氏照(うじてる)が入ったのち大改修が行われ、馬出や深い空堀などが構築された。


空堀跡
堀には、水を湛えた水堀と、水のない空堀(からほり)とがある。


空堀跡

角馬出の遺構
馬出(うまだし)は、虎口の外側を守るために築かれたもので、虎口の外に設けられた堀つきの小曲輪。半円形の丸馬出と角形の角馬出とがあった。


角馬出

  

{祇園城見取図(城山公園案内板より)}

{一言メモ}
転封〜
関ヶ原の戦い以後、家康は戦後処理という形で、転封・改易を実施した。転封とは所領を他国へ移すこと。敵対した西軍大名の大半を改易あるいは減封し、それによって空いた所領には、東軍で活躍した豊臣恩顧の大名を置いた。恩賞という名目で石高を加増する一方、中国・四国・九州といった遠国へ追いやった。そして関東周辺と東海道・東山道沿いの諸国には親藩・譜代大名を配置し、江戸の徳川家を中心とした領国支配体制の基礎をつくりあげた。さらに、大阪の役で豊臣家を滅亡させた後は、大阪を天領(幕府の直轄地)として、その周辺諸国にも、親藩・譜代大名を置き、徳川家による西国の支配体制を強固なものとした。

{祇園城の歴史}
●別名「小山城(おやまじょう)」。1148年(久安4)に小山政光(おやま まさみつ)が、思川の西岸台地上に築いたという。当初は小山氏の支城であったが、のちに本城となる。そして小山氏は、1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原北条氏の制圧とともに常陸へ逃れた。
●1600年(慶長5)、上杉攻略のため、徳川家康が大軍を率いて小山に進駐。ここに本陣をおいた。そのとき、石田三成の挙兵を知って、ここで諸将と軍議を開き、今後の対応について話し合った。上杉攻略を中止し、石田三成征伐のため大阪に向かうことを決めた。これは、まさに徳川氏の運命を決める重要な軍議であったといえる。世にいう「小山評定」である。1616年(元和2)、本多正純が城に入るが、3年後宇都宮へ
※転封したために廃城とされた。

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