このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
国史跡
「所在地」山口県萩市
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復元された北の総門 萩城三の丸の東側に当たる出入口。総門としては、他に中の総門・平安古の総門があった。この門は他の門の北に位置して北の総門と称し、萩城外堀を隔てて城下町に隣接した門番所があって、暮れの六ッ時(日の入り)から明け六ッ時(日の入り)まで門を閉め、夜中は人も荷も手形を有する者に限り通行が許された。 | 外堀と北の総門 堀の左側は城下町、右側は堀内(三の丸)。 | ||
旧明倫館跡 1718年(享保3)に毛利吉元が堀内に開いた藩校明倫館跡。幕末に堀内から現在の市中心部に移転。 | 明倫館 遺構 万歳橋 萩城内に移転保存されている万歳橋。この万歳橋は、嘉永2年(1849)江向に新築移転後の明倫館孔子廟の池にかかっていた遺構。橋は花崗岩で造られており、中国風のデザインを施した太鼓橋である。 | ||
口羽家住宅表門(長屋門/国指定重要文化財) 口羽氏は、萩藩の寄組士(禄高1,018石余)として代々萩城三の丸に住んだ。この三の丸(堀内)一帯は、大身の武士が住んでいた地区で、当時の面影をよく残し、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。昭和51年10月から解体復元工事が行われ、54年2月に竣工した。 | 門番所 口羽家長屋門を入った左手に位置する。 | ||
旧児玉家長屋 児玉家は、萩藩寄組に属し2,243石余の大身武士であった。建物は木造平屋建て、外廻り壁は白壁、腰はなまこ壁としている。 | 堀内鍵曲(ほりうちかいまがり) 「鍵曲」は、敵の侵入や攻撃に備えるため、左右が高い土塀で囲まれた、見通しのきかない鍵手形(かぎのてがた)の道路である。藩政時代、このあたりには重臣たちの邸宅が建ち並んでいたが、明治時代以後、ほとんどが解体された。なお、この堀内地区は、国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定されている。 | ||
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幕末に吉田松陰・高杉晋作ら維新の志士を輩出した萩城下町は、町割や武家屋敷が大規模に保存され、国史跡、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。 | 江戸屋横丁通り | ||
木戸孝允(桂小五郎)誕生地 | | ||
高杉晋作誕生の地 幕末に活躍した高杉晋作は、1839(天保10)年、萩藩士高杉小忠太の長男としてこの地に生まれた。 | 菊屋家住宅 藩御用達の豪商 | ||
松下村塾(国史跡) 吉田松陰を祀る松陰神社境内に建つ木造瓦葺きの小舎。 | 松下村塾内部 ここから多数の尊皇攘夷の志士が巣立った。 | ||
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■1600年(慶長5)関が原の戦いで敗北した、西軍の総大将格の毛利輝元(元就の孫)は、それまでの中国地方8か国120万石から、周防・長門の2か国36万石余りに減封され、居城としていた安芸広島城も明け渡すことになった。周防・長門2か国のなかで、毛利家が新しい城地として候補にあげたのは、山口と防府、それに萩であったが、幕府が許可したのは萩であった。
輝元は1604年(慶長9)、日本海に面した長門国・萩の指月山(標高143m)に築城を開始。1608年(慶長13)完成。
指月山の南麓に平城、山頂に詰丸を配した。
※詰丸(つめのまる)とは近世城郭では、本丸が山麓にある場合、その背後の山上の曲輪をいう
時代が下って、1863年(文久3)最後の萩藩主・13代毛利敬親(たかちか)は、藩庁を山口に移転。この新しい藩庁は、よそからは山口城とよばれたりしているが、当の毛利家では山口城とはよばず、山口屋形と称していた。 1874年(明治7)萩城は解体。城址は指月公園となり、本丸の石垣や天守台が往時を偲ばせている。
萩城は、指月山頂に詰丸(つめまる)、その南麓に本丸を配した、山城と平城を混在させた縄張が特徴。3面は海。本丸は内堀に囲まれ、二の丸は南側に中堀をめぐらし、城郭三方を土塁・石垣・土塀と櫓で囲んだ。山頂の要害である詰丸は、高さ約3mの石垣と鉄砲狭間のある土塀で囲み、要所に櫓6棟と櫓門1棟を配置。詰丸にも東に本丸、西に二の丸が設けられた。
▲埋門跡石垣 埋門(写真・左)は二の丸最北端に、海岸からの通路として築かれ、石垣上(写真・右)には埋門を守る櫓があった。
▲旧厚狭(あさ)毛利家萩屋敷長屋(国・重文) 厚狭に封地を持つ分家毛利氏の萩屋敷の長屋。二の丸大手の南門跡から100m南に残る。萩に現存する長屋のうち最大で、桁行が51mもある。
▲南門跡(城外側) 平坦部は中堀跡。
▲二の丸大手の南門跡(城内側) 中堀(現在は埋められている)の中央に設けられ、実質的な大手門。
▲指月山北東の石垣 埋門跡と日本海。
▲日本海に臨む指月山北東の石垣 埋門跡から潮入門へいたる石垣。左側には菊ヶ浜が広がる。
▲潮入門跡(しおいりもん)
▲東門へいたる石垣 東門から埋門まで城壁が続いていた。城壁上には二重櫓が5基設けられていた。
▲二の丸土塀 1965年(昭和40)に一部復元。土塀には長方形の銃眼があけられている
▲東門跡 枡形で両サイドには三重の東櫓と二重の時打櫓が築かれていた。
▲本丸の大岩わきにある貯水池跡
▲二の丸から本丸を望む 上段を本丸、下段を二の丸とした。
▲二の丸跡 二の丸に残る「切り割り石」と後方は本丸。
▲切り割り石 築城時に切り割るための矢穴を付けられた石。
▲詰丸要害門 頂上に築かれた詰丸は、要害とも称された。
▲詰丸埋門
▲詰丸へ至る途中の急な坂道
▲本丸から山頂の詰丸への登り口
▲本丸石垣の雁木(がんぎ) 本丸石垣の内側部分。石垣の城内側を階段にしたようなもので、防衛上の要所となる所には雁木という石段を築く。大勢の兵士が一気に石垣へ駆け上がれる。写真右端は天守台。
▲城内からみた天守台
▲本丸門を入った所の本丸跡
▲本丸門へいたる極楽橋
▲本丸門跡 手前の橋は極楽橋
毛利輝元公像<二の丸南門跡近くに建つ>
本丸石垣と指月山 萩城は、指月山(しづきやま)の山頂に詰丸、山麓に本丸が築かれ、指月城ともよばれる。
平城・山城
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