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所在地】静岡県浜松市
【地形種類】平山城

■天守門跡と浜松城復興天守

浜松城の歴史
■浜松城は、三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して引馬(ひくま)城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿江(すんえん)経営の本拠と定めた。
■家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦もこの期間に行なわれ、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。
■当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ヶ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他作左曲輪、出丸等もあった。この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴氏によって天守が築かれたといわれているが、家康のあとは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩政約260年の間に再任を含めて、25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、なかでも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。
■明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に新天守閣が再建された。昭和34年6月18日浜松城跡は市の史跡に指定された。(文は現地パンフより転載)

東照宮(引馬古城址)
浜松城の前身引馬城跡。日光、久能山と同じく家康(権現様)を祭るお宮。
浜松城の縄張
「浜松城古図」
■安政元年(1854)の大地震で破損した石垣や櫓などの状況を調べ上げた絵図。天守曲輪のほぼ中央の高い石垣が天守台で、天守はすでになくなっている。浜松城は、比高25mの台地の先端を利用した平山城。その最高所である北西部に天守曲輪を置き、その東に一段下がって本丸がある。天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。普通の城は天守閣をとり囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東、約17m下に造られた。
■周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東のすみにニ層の菱櫓を置いた。本丸内の建物についての詳しいことはわかっていない。
■本丸からさらに一段下がって二の丸を一直線に並べ、二の丸の南から東を囲んで広大な三の丸と侍屋敷があった。また天守曲輪の南から西にかけては、空堀を挟んで清水曲輪と西端城(にしはじょう)曲輪を設けて守った。浜松城では天守曲輪のほか、これを囲むように清水、西端城、作左の3曲輪があった。清水曲輪は、清水がわいていたので清水谷とも呼んだ。作左曲輪は城の西北の守りで、本多作左衛門重次が住んでいたことから名付けられた。天守曲輪と本丸の北方は、深くて険しい谷が続いて、天然の要害となっていた。

「安政年間(1854〜)古図による浜松城付近」
 
■南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。
 本丸の東どなりにあるニの丸は、土地も一段と低くなっている。本丸との間には空濠があり東側に2代将軍秀忠が生まれた御誕生場がある。
 ニの丸には城主の居館があり、また浜松藩の政庁も設けられて江戸時代を通じて藩政の中心であった。櫓は、清水曲輪と西端城曲輪とが連続する突角部に銭櫓、南外壕と東外壕とを結ぶ突角部に角櫓があった。

 ■古図右下は、浜松城築城以前の引馬城跡。
 現在では浜松市役所元城小学校浜松城公園駐車場浜松市体育館浜松城公園中央芝生広場浜松市立中央図書館浜松市美術館⑧日本庭園となり、二の丸と三の丸の間は国道152号が貫通。
 城跡は、天守曲輪と本丸の一部の石垣が残り、あとは、浜松城公園、公共施設、市街地となっている
「浜松城公園案内図」
家康像は本丸跡に、天守曲輪には天守台と、その上に復興天守閣が建つ。周囲には、400年前の石垣が残る。
▼浜松城天守

郷土博物館を兼ねた3層3階地下1階のコンクリート造。
復興天守は巨大な天守台の半分のみを使用している。

▼天守台<野面積みの石垣>


<浜松城の石垣>
 浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、4百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。
 この石垣は野面(のづら)積みといい、自然石を上下に組み合わせ積む方法で、慶長(1596〜1615)以前はこの方法が多く用いられました。
 石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1〜1.5mほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰石をし、外観は乱雑ですが堅固に造られています。

 浜松城は、特に天守台と天守門跡付近の石組が堅く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。
 石垣の斜面は直線的で、57度〜78度の傾斜をしています。石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、2代城主堀尾吉春の頃(1590年頃)と考えられています(文は現地説明板より)

 ▼天守台地下にある井戸〜天守台には穴藏と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにした井戸。この井戸は直径1.3m、深さ1mほどで、籠城の際、貴重な水を確保するための井戸であった。
 

 

天守曲輪と石垣
▼天守門跡石垣

天守曲輪入口の櫓門の裾石垣。隅部の算木積みが未発達で、下部に大きな竪石を入れている

 
▲天守曲輪跡〜東(石垣の左側)に天守門、西(右奥)に埋門がある。


▲天守曲輪石垣と天守
 
▲写真左・右〜この石垣は、400年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣。

 

 
▲家康公お手植えのみかん〜家康が駿府城で自ら移植したみかんの木から接木したものを静岡市より寄贈されたもの。

 
▲銀明水と呼ばれていたという井戸〜浜松城には、10本の井戸があったという。右側石垣の間を下った所が埋門跡。
▼本丸跡
 
本丸跡から天守曲輪と天守閣を望む

 
本丸跡の徳川家康公の銅像
後方は天守曲輪となり、天守曲輪より一段下がって本丸が造られた。

 浜松城公園日本庭園
浜松城天守閣と作左山の谷間を利用し深山渓谷を表現した廻遊式の庭園
  

 犀ヶ崖(さいががけ)古戦場
三方ヶ原合戦の敗戦に意気消沈の家康公の像(岡崎城内設置)

【三方ヶ原の合戦】
 有名な「三方ヶ原の合戦」は、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松郊外の三方ヶ原台地で激突したもので、家康の生涯で最大の敗戦となった戦いとされています。浜松城に進軍してきた武田軍の予想外の動きの早さに「手強いぞ、油断できない」と気を引き締めて戦いますが、三方ヶ原台地では三万人という大軍の武田軍が万全の体制で待ち構えていたのです。

 こうなっては、一万人の徳川軍に到底勝ち目はありません。家康は目立つ鎧を脱ぎ捨て家臣に化けて、命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。家康はこれ以後「大きな戦いの前には、準備工作が大切だ」と肝に銘じたということです(現地案内パンフレットより)
 
「三方原古戦場犀ヶ崖」石碑〜石碑のうしろの樹木下が犀ヶ崖。
 犀ヶ崖の谷底〜犀ヶ崖は、浜松城の北1K、三方原台地が亀裂、陥没してできた長さ2K、深さ40m、幅50mの断崖。
犀ヶ崖古戦場跡と犀ヶ崖資料館(右の建物)
 樹木の生い茂っている所が犀ヶ崖。犀ヶ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないがこの付近から下流450mの間に、急な崖が連続している。この付近では、幅約30m、両岸とも深さ10数mの絶壁をなす。元亀3年(1572)12月22日、徳川家康は、三方原において武田信玄に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰ったが、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が、地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。静岡県指定史跡。

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