このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

美しい水の町 
 
宗祇水(そうぎすい)
水の町・郡上八幡を象徴する湧水。吉田川と小駄良川(こだらがわ)の合流点近くに湧出する泉。郡上領主の※東常縁(とうつねより)と、彼から古今伝授を受けた連歌師飯尾宗祇のゆかりの場所として伝わり、歌にことよせて「白雲水」ともいう。「名水百選」にも選ばれている。
※東氏は鎌倉時代の1219年(承久元年)、地頭となり、郡上周辺を領有し、戦国時代を生き抜き、11代340年間支配した。
 
清水橋と小駄良川。橋の右手に宗祇水がある。
 
吉田川(上側の川)と小駄良川(手前の川)の合流点。吉田川は天下の名川・長良川の支流。

郡上八幡城アクセス
長良川鉄道郡上八幡駅から岐阜バス郡上八幡城下町プラザ下車、徒歩30分。

(地図/「小学館発行・名城をゆく」から転載)

郡上八幡城下町プラザから望む八幡城天守

郡上八幡城から見た郡上八幡市街

<四方を山に囲まれ、町の真ん中を吉田川と小駄良川が流れる水とおどりの城下町・郡上八幡>

郡上八幡城をゆく
八幡城に登る城山遊歩道
城山遊歩道の途中にある公園に建つ、山内一豊・千代の銅像
後方は天守。山内一豊は、乱世に、信長、秀吉、家康の三英傑に仕え、後に初代土佐藩主となった。その影には、妻・千代の存在があった。千代は近江出生説とともに初代八幡城主・遠藤盛数の娘であるとする説がある。したがって八幡城は千代ゆかりの城とされている(千代は、へそくりで夫に名馬を買ってやったという有名な賢夫人である)

遊歩道から眺める天守


天守(左)と隅櫓
力石
この二つの石は、1667年(寛文7)城主遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めたとき、その中の一人である大和町の作兵衛(通称・赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約350K・長さ約1m・厚さ約30cm)

模擬大手門と天守(後方)
大手門は平成3年6月完成。


隅櫓
隅櫓(城内側)
隅櫓は平成3年5月に完成。

模擬天守
4層5階建木造建築。木造再建城としては、日本最古。1993年(昭和8年)に再建。同じ県内にある大垣城をモデルに建てられた。


天守から眺める隅櫓、模擬大手門


天守から望む郡上八幡市街と吉田川

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郡上八幡駅

長良川鉄道

【歴史】
■戦国時代末期の1559年(永禄2)、遠藤盛数によって築かれた。後方には緑濃い連山が飛騨までつづき、南と西を流れる吉田川・小駄良川が天然の外堀となっている。遠藤氏は、奥美濃の名族東氏の一族だったが、本家を滅亡へと追い込み、小戦国大名の地位を勝ち得た。だが、賤ヶ岳の戦いで、盛数(もりかず)の子遠藤慶隆(よしたか)は、羽柴(豊臣)秀吉に敵対し敗戦したため、城主の座を失った。その後、稲葉貞通が城主となり、今日に伝えられる石垣が築かれた。
■しかし、関が原の戦いで西軍に属したため移封の憂き目をみる。徳川家康は、ここに再び、遠藤慶隆を入封させる。その後、遠藤氏5代常久が幼少で死に、改易処分となったのち、井上氏・金森氏が入封。金森氏が農民一揆などを咎められて取り潰されると、譜代大名の青山氏が入封し、以後世襲し明治維新まで城主として君臨した。明治になって廃城となったが、1933年(昭和8)模擬天守が木造で再建された。木造再建城としては日本最古。県史跡。

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