このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

八戸城

青森県東南部に位置する八戸市は、八戸藩2万石の城下町

◆八戸城の概要◆

 八戸城は、馬渕(まべち)・新井田(にいだ)両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城された平城。

 戦国時代の末に、三戸の南部信直(なんぶのぶなお・初代盛岡藩主)が豊臣秀吉から朱印を受け、南部内七群を支配するようになった。その子利直(としなお・第2代盛岡藩主)は、寛永四年(一六二七)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝えられる。
 

 しかし、当城および城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直(しげなお・第3代盛岡藩主・利直三男)が、寛文四年(一六六四)世継ぎを定めないまま没したため、幕府が新たに弟重信(しげのぶ・第4代盛岡藩主・利直五男)に盛岡八万石を相続させ、同じく弟南部直房(なおふさ・初代八戸藩主・利直七男)に八戸二万石を分封したことにより、八戸藩が誕生した後のことである。

 遺構は八戸城角御殿表門、土塁、本丸跡などが残る。

■内堀跡
道路の突き当たりが本八戸駅になり、南部会館前から北(本八戸駅)へ至る道路はかっての内堀跡。
道路右側は二の丸、左側は本丸です。

{市内の住居表示看板より転載・加筆}
県重宝  八戸城角御殿表門 ここは、寛政年間には角御殿(すみごでん)と呼ばれていた。寛政四年(一七九二)御者頭煙山治部右衛門がここに居住し、八戸城にふさわしい門と玄関を建てるように命ぜられた。門はその五年後に建てられた。 昭和五三年、風雪のため倒壊し、昭和五十五年、創建当初の形に復原された。

八戸城(はちのへじょう)
JR八戸線「本八戸駅」プラットホームから望む城跡(樹木部分)。

駅の南側に位置し、北に向かって丸く突き出した台地上の一帯。
現在、城跡の一部は眺望の良い三八城(みやぎ)公園として整備されている。

【所在地】青森県八戸市内丸

八戸城跡発掘調査の現場

八戸城跡周辺図】

▼八戸城絵図「弘化四年(1847)頃の絵図」
南部会館前から、本八戸駅に至る縦の道路は、本丸と二の丸を区切る内堀であった。また、南部会館の南から東を回って北側(本八戸駅のところ)には外堀が回り、周囲と区画を分けていた。

八戸城角御殿表門の構造は棟門(むなもん)といわれ、通常は二本の柱(鏡柱)の上部を冠木(かぶき)でつなぎ、切妻屋根を載せるものであるが、この門の場合は、四本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に二本の支柱(控柱)を取付けるという特異な構造となっている。

はちのへじょうすみごでんおもてもん
◆八戸城角御殿表門◆

▼城跡から望む八戸市街

▼本丸跡から見る市庁舎

▼三八城公園内の八戸城本丸跡

▼三八城公園

■三八城公園に建つ
八戸藩初代藩主・南部直房公像

※訪問時(2008年7月)、八戸城本丸跡碑の建つ近くで城跡発掘調査が行われており、
調査期間 6月3日〜9月12日
調査主体 八戸市教育委員会文化財課
の標識が掛けられていました。

{城跡説明板より転載・加筆}

■本八戸駅の南に出て坂を上がると、すぐ右手は三八城公園。

■下の住居表示図のうち、内丸二丁目・三丁目の一画は、藩政時代の八戸城の二の丸にあたり、藩主一族や重臣の屋敷地であった。
三八城公園は本丸にあたります。

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