このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

史跡松前藩 戸切地陣屋跡概略

所在地
{所在地}
北海道北斗市野崎

{交通アクセス}
JR江差線清川口駅より約5km内陸に入る。
道道96号を北に進み、清川寺のところを左斜めに曲がり、約1kmの一本道の突き当たり。
無料駐車場有。

構造

 この陣屋は安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており6つの砲座があります。
 郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋がつかわれないよう建物に火をつけ焼払っています。
 この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。
●陣屋総面積 42.600㎡(12.900坪)
●陣屋郭内面積 23.400㎡(7.080坪)
(現地説明板より)

歴史
  この陣屋は安政元年(1854年)神奈川条約締結後、幕府は外国船渡来により不測の変に備えて翌2年、津軽・南部・仙台・秋田・松前の5藩に分担警備させ蝦夷地防衛の強化をはかった。松前藩は七重浜から木古内までを分担し、その陣屋としてこの戸切地陣屋を構築した。

 基本は蘭学の築城書による四稜堡で、大砲6門を据え宿舎22棟を建て、備頭(そなえがしら・陣屋の最高職)竹田作郎忠憲以下1隊の兵を駐屯させたが漸次、士卒の家族を移して守備のかたわら付近の開拓に従事させ屯田のかたちをとった。

 明治元年箱館戦争の際、駐屯の松前軍は陣屋を自焼して退いた。この陣屋は保存極めてよく幕末における北辺の国際情勢を窺うによく且つ西欧風の影響を知る資料として築城史上価値ある史跡である。
(現地説明板より。一部加筆。)

復元・整備
 陣屋跡は、整備されており、表御門跡と裏御門跡には大手門と搦手門が復元。郭内には、発掘調査で確認された大砲入跡、筒入跡、蔵跡、備頭・目付詰所跡、足軽長屋跡、武器庫跡等々が平面表示されている。

復元された大手門


馬隠し土塁上から見た大手門(郭内側)


搦手門(郭外側)

平面復元(表示)された建物跡


筒入跡(つついれあと)
 1986年の調査により確認された縦4.55m(2.5間)×横9.10mの筒入跡で、陣屋備武器覚書には3貫目(11.25kg)筒15挺、1貫目(3.75kg)筒9挺など全部で87挺の(大砲以外の)筒を保管していたようです。
 当時、大砲を大筒(おおつつ)と呼んでいたように、小型の砲や鉄砲などを総称して「筒(つつ)」と呼んでいました。火薬を使う武器保管のため周囲より50cmほど高い壇上に構築され、湿気を防ぐよう考えられています。
(現地説明板より)


大砲入跡(たいほういれあと)
 1986年の調査で確認された縦4.55m(2.5間)×横5.46m(3間)の大砲入跡で、重い大砲が6挺保管されていたもので、建物の内側には小石が敷かれた状態で発見されています。
(現地説明板より)

 大砲入跡は、南東角の稜堡の砲台跡に位置し、写真後方の土塁の凹形にくぼんだ部分は砲座で、砲座は6ヶ所に築かれた。

現況

南東角の稜堡
 亀が首を出した形の頭の先端部分の砲台跡で、土塁に築かれた凹形の砲座が確認できる。空堀左奥の土橋が表御門跡となる。


南東角の稜堡と砲座
 上の「南東角の稜堡」写真を拡大したもので、土塁の高さと、空堀の深さを合わせるとかなりの落差となる。


南東角の稜堡の砲台跡(郭内側)と砲座
 V字型の稜堡先端から両側に3ヶ所ずつ、計6ヶ所築かれている。


砲台跡(郭内側)と砲座
 左写真の右側に築かれた3ヶ所の砲座。

大手門から見た馬隠し
 五稜郭の見隠塁(みかくしるい)に相当する土塁。


搦手門から見た馬隠し

空堀(大手門側)


(搦手門側)

土塁と砲座(凹形部分)
 南東角の稜堡で、土塁に沿って空堀が幅広く築かれている。


土塁(郭内側)

稜堡
 横から見た南東角の稜堡。右端が先端部。この場所にのみ砲台が設けられた。


稜堡
 戸切地陣屋は四稜の星型をしており、この部分は南側の稜堡の先端部。
■郭内の状況  馬隠し(左の土塁)後方から大手門を望む。
■郭内の状況  大手門側の馬隠し土塁上から搦手門方向を望む。

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