このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ヘリテ—ジング100選
倉敷市・美観地区
 
  倉敷民藝館と倉敷館(右端・国登録)
 
中橋と倉敷考古館
 
【倉敷美観地区の成り立ちとその魅力】
■白壁の町と運河としての倉敷川
 美しい白壁の町並みが川面に映える町、倉敷。江戸時代、幕府の直轄地(いわゆる天領)となり、舟運に使われた倉敷川を中心に繁栄し、白壁の屋敷が立ち並ぶ美しい町並みが生まれました。
 その後、幕府の代官陣屋が置かれ、山陽地方の幕府領の政治の中心地となり、また周辺地域の干拓や新田開発なども積極的に行われ、さらに発展しました。
■統一感溢れる町並みの魅力
 倉敷の町並みの魅力は、建ち並ぶ屋敷の統一感にあります。白壁と貼瓦が特徴の屋敷は、倉敷窓・倉敷格子といった独自のスタイルを持ち、屋根の勾配を揃えて建てられています。これは当時の住人たちの美意識として、自然発生的に整えられたものです。

     

 
旧大原家住宅(国重文)と有隣荘(右側)
 
雁木(がんぎ)(船着き場の階段)
 
【町並み保存の歴史と人々の熱意】
■伝統ある町並みを守る『意志』
 江戸時代からの伝統ある町並みにも変化が訪れます。大正時代には洋館ブームが起こり、建物の正面を洋風に改装する「看板建築」が現れたり、第二次大戦後には建物の劣化が放置され、町並みは荒れていきました。
 しかし、国内外から倉敷の町並みを賞賛する声が高まり、建築・民芸などの視点から、町並み保存の輪が住民にも広がっていきました。倉敷の町の誇りは、人々が住み暮らす場で同じ美意識を共有し、ともに町を守ってきたことです。
■重要伝統的建造物群保存地区選定
 保存活動を始めた人々は、啓発・広報活動のかたわら、古民家を改修して倉敷民藝館や倉敷考古館として再生させました。また行政への働きかけも行った結果、昭和43年に「倉敷市伝統美観保存条例」が制定され、昭和54年には国から「重要伝統的建造物群保存地区」として選定され、全国から観光客が訪れるようになりました。(文は倉敷物語館内の説明板より)

     

倉敷物語館
 美観地区の玄関口に位置し、南側の長屋門や塀、西側の路地がひときわ美しく、江戸時代の景観がよく保存されております。この建物は旧東大橋家の住宅を改修したもので、建築年代は江戸中期(1760年頃)とされ、長屋門や土蔵が当時の風情を現代に伝え、美観地区を訪れる方々に‘倉敷らしさ’の印象を最初に与えます。この施設で、美観地区の名所について学び、これから始まる倉敷観光の魅力を感じてもらうとともに、観光を終えた方々には、ひとときの休息と満足感を満喫していただきます。そして情報コーナーでは、次に訪れたい倉敷各地の観光情報をご案内いたします。(現地説明板より)   
 ■倉敷川畔美観地区鳥瞰図  

 ①大原美術館②倉敷アイビースクエア③倉敷民藝館④大橋家住宅⑤倉敷考古館⑥日本郷土玩具館⑦倉敷市立美術館
 ⑧旧大原家住宅⑨倉敷館⑩児島虎次郎記念館・倉紡記念館⑪倉敷物語館<鳥瞰絵図(岡本直樹作)に追記し引用>
 
■倉敷川畔

 掘割り、柳並木、川面に映る白壁と貼り瓦・・・。
江戸時代、幕府の天領であった倉敷は、この河畔を中心に物資の集散地として栄えた。
大原美術館、民藝館、考古館などの白壁の倉と昔ながらの町屋で織りなす町並みが江戸の佇まいを今に伝えている。
外壁の全面に貼り瓦の海鼠目地瓦張(なまこ壁)が施されている倉敷考古館。左奥は無料休憩所・案内所となっている倉敷館(国登録)。かつては倉敷村・倉敷町の役場として利用されていた
石畳の道〜江戸時代の米俵の運搬道で、車のわだちが、できないようにしている。倉敷川から倉敷アイビースクエア西門に続く細い道に残っている
 
■大原美術館
倉敷の事業家大原孫三郎氏によって創設されたこの美術館は、ギリシャ神殿風の建物の中に、エル・グレコ作「受胎告知」
をはじめモネ、マチスなど世界画壇の巨匠たちの名画が収められ、文化都市倉敷の象徴的な名所として広く知られています。

昭和5年(1930年)に設立した、日本最初の西洋美術中心の私立美術館
 
大原美術館本館正面には、
ロダンの「カレーの市民」「預言者ヨハネ」のブロンズ像が立つ

■倉敷アイビースクエア
もと江戸幕府代官所のあった場所で、クラボウ発祥の地でもある。
この建物は、その工場跡を利用したもので、昭和49年(1974)に開館した。

倉敷アイビースクエア正門 

代官所内濠遺構


児島虎次郎記念館(国登録)〜大原美術館の絵画を収集した児島虎次郎の作品を展示


倉紡記念館(国登録)〜倉敷紡績株式会社の歴史を展示



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