このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  ひ ばた
日幡城    倉敷市日畑

■中国地方の大名・毛利氏が領国東端の備中国南東部(岡山市西部・倉敷市北東部)一帯に整備した「境目七城」の一つ。1582年(天正10)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略した。その時、日幡城も攻略され落城となる。

足守川の中流域の右岸、標高40m前後の低い独立丘陵の一角にある丘城。

日幡城跡石碑

▼犬養木堂生家(昭和53年1月 国重要文化財に指定)

●別名 日畑城

●創築年代 永禄4年(1561)以前、16世紀初葉か。

●形式 丘城

●遺構 本丸・出丸・堀切

※楯築遺跡と犬養木堂生家については「岡山県の文化財」に掲載

▼楯築遺跡(国指定史跡)

附近の史跡・文化財

 日畑城址は、日畑西組大手にある城山といわれる小丘にある。ここは足守川の西堤防ぞいの、広大なる平地で、今は畑や屋敷などがある。天正のころ、日畑六郎左衛門景親の居城となっていた。備中誌という本によると、永禄4年(1551)備前竜ノ口城に後詰として、浦上氏の勢をしりぞけ、同7年(1554)浦上の大軍が再び竜ノ口城を攻めたとき、日畑は、備中の将士とともに戦い武功をたてた。天正8年(1580)宇喜多直家は軍をもって日畑城を攻めましたが、日畑軍はよく城を守り、毛利方より上原右衛門大夫元祐、来島刑部通房などが加勢してくれたこともあったが、天正10年(1582)高松城水攻めのおり、上原元祐が裏切り、だまし討ちにされ、遂に日畑城は落城してしまった。 
 (文は、(社)倉敷市観光協会発行「新・倉敷観光シリーズ」より)

▼西側から望む日幡城跡〜写真・左側が足守川になります。城郭は、東西に平行する二郭からなり、「東の丸」が本丸で足守川に臨み、その西に位置する「西の丸」が出丸。本丸と出丸との間には、現在、用水路の流れる堀切がみられるとのことです。確認できていません。

【城跡周辺地図】
日幡城から直線距離で加茂城まで約1.3km、庭瀬城まで約2.5km

▼北橋から望む日幡城跡

▼足守川に架かる日畑橋から望む日幡城跡

※潅木が一面に茂っているため、城跡の形跡は未確認。

日幡城跡石碑の裏側に
    天文年中 初代 景教 築城
    天正十年 三代 景親 落城
と刻まれている。

※弥生時代後期(6世紀後半頃)に築造された墳丘墓。国内最大級の規模を誇る。

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