このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

引田城跡
(ひけたじょうあと)


[所在地]香川県東かがわ市引田城山 [文化財史跡区分]市指定文化財 [城地種類]山城(標高82m) 
 
北二の丸「下段の石垣」
自然石を積んだ野面積の高石垣(5〜6m)が残る


【引田城址概略】
 引田城は、東かがわ市引田の北側に岬状に突き出した城山(標高82m)の山頂に築かれています。

 文献史料上、引田城に関わる記述が見えるのは、江戸時代編纂の軍記物語『南海通記』にある応仁年間(1467〜69)に寒川氏が領したとあるのが初見です。戦国時代には阿波三好氏との攻防があり、引田城の城主は四宮氏、矢野氏など何度も変わりました。

 戦国時代の終わりごろの天正15年(1587)に、播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)から豊臣秀吉の家臣である生駒親正が讃岐国を治めることとなりました。生駒氏は讃岐国支配の拠点とする高松城と並行して、慶長年間(1569〜1615)に西讃地方の支城として丸亀城、東讃地方の支城として引田城を築きました。

 現在の引田城址には、生駒氏が築いた自然石を積んだ野面積の石垣が残っているほか、建物の礎石やたくさんの瓦がみつかっています。この技術は、織田信長の安土城築城から始まり、信長・秀吉方勢力によって、築かれた、織豊系城郭と呼ばれるものの特徴です。

 高松城や丸亀城は城主が替わったことや市街地の開発のため改変されていますが、引田城址には築城時の石垣が残っており、石垣の年代の指標と成りうる貴重な城跡と評価できます。(文は現地説明板より。写真は引田港から望む城山)

【引田城地図】
 引田城跡は、戦国時代から江戸時代初めにかけて(15世紀後半〜17世紀初め)、豊臣秀吉の家臣仙石秀久や生駒親正などが居城した城の跡である。城跡は約12haの広さで、「郭」・「丸」と呼ばれる平坦地が7つあり、櫓(武器や食料の貯蔵や防禦を目的とした建物)も築かれていたと推定されている。この城跡の特徴は、山頂全域に石垣を巡らしていることで、県内の戦国時代の城跡の中では唯一の事例で貴重なものである。(写真と文は現地説明板より)


【引田城跡訪問】
<訪城日:2019年1月>

 訪問時、JR高徳線「引田駅」から先ずは、讃州井筒屋敷に行き引田城資料をもらい、引田港側登り口に向かいました。この間、徒歩約20分です。なお、城跡散策には引田城資料がないと分かりにくい遺構もありますので必要です。



讃州井筒屋敷
 城跡資料、スタンプ設置場所です。



引田港側登山口
 城の歴史や城跡案内図などの説明板が設置。

引田城跡散策マップ
<現在地が引田港側登山口。案内板に一部加筆>

散策は、引田港側登山口から本丸、天守台跡、化粧池、東の丸、北二の丸と反時計回りに巡り、引田港側登山口に戻りました。
(注)現在利用している遊歩道は大正時代末期に整備された遊歩道です。このため、築城当時と違う経路があります。崩落の可能性がある石垣をシートで覆い保護している場所や時期により下草などが茂っている場所があります。



狼煙台跡
 登山口からここまで約15分。そして、本丸跡までは約3分でした。標高約82mなので城廻は楽勝かと思いきやとんでもない間違いでした。城域は広く上り下りの道もあり大変でした。10数人の訪問者と出会いましたが、1月にもかかわらず汗だくでフウフウ言いながら散策していました。

本丸
 この一帯の曲輪が本丸であり、ここから南東に100mにある長方形の櫓台が天守台と推定されています。
 本丸の西側に位置するこの算木積は、隙間に間詰め石を用いる古い積み方で、引田城址で最初に築かれた石垣と考えられています。天守台の存在や石垣に折りが多用されることから、城内でも最も主要な曲輪と位置づけられます。



本丸の石垣
 引田城の石垣は、城山周辺の和泉層群の砂岩と礫岩を利用して築かれています。

本丸(展望台跡)
 本丸上段の円形の石積は、引田城址のある城山が大正12年(1923)に久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)の行啓予定地となったため築かれた展望台跡です。



南の郭
 この奥に天守台跡が残る。



天守台跡

化粧池南側の石垣
 化粧池は、引田城のお姫様や女中たちがこの池の水を使って化粧していたと伝えられています。水不足を克服するために築かれた人工の貯水池。化粧池の石垣は、他の曲輪の石垣よりも、後世に築かれたものです。



東の丸
 東の丸は、上中下3段の曲輪から構成され、塁線の石垣がひとつづきとなるように連結されています。火薬を保管した硝煙蔵など軍事施設があったと推定されています。発掘調査では、しゃち瓦の破片が発見された。

引田城跡の見どころである北二の丸<上段と下段の石垣>
 北二の丸の下は、城の出入り口である大手道です。大手道の左右に北二の丸と南二の丸の石垣が広がります。北二ノ丸には上段2〜3m(左上、シートで覆われている部分)、下段5〜6m(右下、石垣部分)の高石垣が残っています。上段の石垣は城内でも大きな石材を使っています。下段の高石垣では間詰め石が丁寧に詰められています。
 石垣で囲まれた北二の丸と南ニの丸は、御殿があった場所と推定されています。北二の丸では発掘調査により、建物の礎石と多くの瓦が発見されています。(現地説明板より)



上段の石垣
 残念ですが、現在は石垣が崩れる危険があるのでブルーシートで保護しています。右の写真入り「説明文」でしか確認することはできません。



現場に掛けられている「説明文」

下段の石垣
 この石垣沿いを奥へ行くと大手門跡です。



下段の石垣
 大手門跡側から見た下段石垣。

大手門
 大手門の周辺には大きな石材が置かれています。石垣によって城主の権威を示そうとしています。


北曲輪
 北曲輪には石垣が築かれていません。ここは石垣を備えた織豊期の引田城以前の土づくりの引田城の遺構と考えられます。

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