このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国史跡      日野江城      金箔瓦が出土した城

                 
【長崎県南島原市北有馬町】

 国道251号線に建つ案内標識。標識には「天正遺欧少年使節を育んだ町」と書かれています。第13代当主の有馬晴信は1579(天正7)年洗礼を受けキリシタン大名となった。1580年、イエズス会の中等教育機関「有馬のセミナリヨ」が有馬の城下町に創立された。
 1582年には卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遺欧少年使節」がローマに派遣され、4少年は8年半を要し帰国した。帰国の際、日野江城跡で8日間にわたる報告会が催され、完成したばかりの屋敷に案内されたときの様子がイエズス会年報で次のように報告されている。
 「大小の部屋はすべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた。この屋敷は、最近有馬殿の手で建てられ見事な出来ばえとなった城郭の中にある。」
 豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、豊臣秀吉、そして、次の天下人である徳川家康の臣下となり、島原半島4万石を支配するにとどまるのだが、有馬氏が行ってきた南蛮貿易や、キリスト教の保護政策は有馬にヨーロッパなどからの様々な文物や文化をもたらし、国際交流の最先端地を形成させことになったのである。

『日野江城への案内標識』

 1612(慶長17)年、幕府の禁教令が出ると、有馬氏は日向県(延岡)に転封となった。新たに領主となった松倉重政は、1618(元和4)年から島原城を築いて移る。以後、日野江城は廃城とされた。

 昭和57年7月3日国の史跡として指定された。建造物は残っていないが、近年の発掘調査で、石段や金箔瓦が出土した。また空堀も残っている。

(写真左・下)大手口から登った所にある、大陸系の技術を駆使した石垣遺構。

 なお、本丸に行くにはここからは行くことができないので、日野江城跡浦口(役場附近)からの登城となります。

『日野江城から出土した金箔瓦』

      “史跡 日野江城跡を訪ねる”
城跡への登城口は大手口と浦口の2ヶ所あります

 平成10年度に実施した第4次日野江跡発掘調査で、城郭東側の通称二の丸跡からほぼ完全な形の金箔瓦が出土した。金箔瓦の出土は長崎県内では初めてであり、九州では豊臣秀吉がつくった佐賀県の名護屋城などに次ぐ4例目の貴重な遺物である。

 出土した金箔瓦は鳥伏間(とりぶすま)と呼ばれる瓦で、頭の部分は長軸17cm、短軸16cm、中心の直径11cmの部分に巴紋(ともえもん)といわれる文様や周囲の17個の珠文が完全な形で残り、中心全面の凸凹両面に金箔が施してある。

▼ここは立入禁止となっており、発掘調査中と思われます。

▼階段の上が本丸

▼①②③④の写真は本丸へと登って行く周辺の状況

↑ここが日野江城跡大手口です
本丸跡

平成新山〜普賢岳

日野江城址地図

▼日野江城より、戦国時代に有馬氏が築いた原城跡を望む
後方は島原湾と熊本県天草市

本丸へ至る途中に建つ「尾藤碑」

『大手門から登った所の日野江城跡』

 日野江城は、肥前西部(長崎県)最大の戦国大名であった有馬(鎌倉時代までは有間)氏の居城である。築城は建保年間(1213〜19)に領主の有馬氏初代経澄が築いたとされ、有馬城ともいう。

 城は梯郭式或いは連郭式の構造をもつ平山城で、縄張は山頂の本丸を中心に、その東南に二の丸、一方北西のやや隔たったところに三の丸が配され、二の丸の東南に大手門があった。

 築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有した。また、現在の長崎県、佐賀県に十一城(といちじょう)とよばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領城を支配した。城下には、有馬氏とその家臣達の居館が設けられ、1580(天正8)年にはセミナリョも建てられた。

【日野江城(ひのえじょう)の概要】

■地域別訪問城に戻る

 金箔瓦を使用できたのは豊臣直営もしくは直系の大大名で、豊臣政権の中でも重要な位置を占める城郭のみにその使用が許されていた。金箔瓦の出土により4万石の小大名の有馬氏が時の天下人である豊臣秀吉と密接な関係にあったことを示す証拠として注目を集めている(写真と文は、現地説明案内板より)

日野江城跡・大手口より訪ねた城跡現況

道路沿いに掲げられた日野江城跡(大手口)への案内標識

日野江城跡・浦口より訪ねた城跡現況

 本丸跡へは、この登城口(日野江城跡浦口)から行きます。

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