このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

   平戸瀬戸を望む頂に築かれた平戸城 / 松浦家代々の城

■天守 層塔型 三重五階 鉄筋コンクリート造 内部には、松浦家代々の遺品が展示されている。 最上階からは、平戸の名所が一望できます。 
平戸城
別名亀岡城  日の岳城
所在地長崎県平戸市
地形種類平戸瀬戸に面した亀岡山に築かれた平山城・海城
築城者松浦棟(まつら たかし)
築城年1704(宝永1)年築城開始  1718(享保3)年完成
文化財指定区分
遺構・現況●現存〜北虎口門、狸櫓、各曲輪跡、石垣
●再建造物〜1962(昭和37)年、模擬天守(沖見櫓)再建。その他、乾櫓・見奏櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓など。

平戸城(ひらどじょう)の歴史
鎌倉・室町時代にかけて、この地は水軍として名を馳せた松浦党の本拠であった。松浦家26代鎮信(しげのぶ)は1599(慶長4)年、亀岡に「日の岳城」を築いた。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うために「日の岳城」を焼却、平戸6万1千7百石を守った。松浦家は以来約90年間を「御館(おたち)」で過ごし、その間、御館(現在の松浦史料博物館)が藩庁かつ藩主の私邸として使われた。
■松浦家30代棟(たかし)となって幕府の許可のもと、1704(宝永1)年、「平戸城」の再築を開始、1718(享保3)年、完成した。これが今の平戸城(亀岡城)であり、本丸、二の丸、三の丸外郭により構成され、日の岳の輪郭が利用されている。この平戸城は山鹿素行の縄張によるもので、全国でも珍しい城と言える。
■1871(明治4)年、廃藩置県により廃城、建物は現存する北虎口門・狸櫓を残して取り壊された。その後、1962(昭和37)年、本丸に三重五階の模擬天守などが復興されている。

…平戸城を巡る…

■平戸城案内図(現地案内図板より)

(左)平戸城へは、バスを利用して訪問。JR佐世保駅前にある西肥バスセンターから平戸市役所前で下車(乗車時間約1時間25分)、徒歩約8分。写真左は平戸警察署横の登城口で、ここから北虎口門に向い、この階段を登った所が「左下」の写真。
(下)登った突き当たり左側部分。石段を登ると広場の先に北虎口門へと至る登城口が見えてきます。なお、登城口は他にも数ヶ所あります。

◆平戸城北虎口門扉
1704(宝永4)年、築城当時のもので、北虎口門のくぐり戸であった。この門は、南側に位置する大手門に対し、北側の守りの要であった。

豪壮な石垣と白塀に囲まれた松浦史料博物館。平戸城とは港をはさんだ対岸に建つ。かって城を持たない時代に松浦氏の居館、また藩庁として使われた「御館」があった場所。

●松浦史料博物館

松浦史料博物館から見る平戸城
平戸城天守から松浦史料博物館を望む
■狸櫓 この櫓の正式名称は「多聞櫓」

北虎口門(きたこぐちもん)へと至る登城口

■手前が北虎口門
左奥は狸櫓(たぬきやぐら)(多聞櫓)

■本丸前門
内部は売店になっています。この門を過ぎると天守が位置します。

■天守から望む見奏櫓(けんそうやぐら)と平戸瀬戸。
左の島は、天然記念物「黒子島原始林」。

■乾櫓
乾櫓・見奏櫓・懐柔櫓は、天守とともに復興された。

平戸城周辺の見どころ
平戸城天守の展示物

◆乙宮御神号鎧
35代平戸藩主熈が着用した鎧。

幸橋(国指定建造物)
当初、ここに架けられていた橋は木橋(1669年設置)であったが、1702(元禄15)年、石橋に架け替えられた。かってオランダ商館が築造した、石造倉庫の技法によって造られたといわれており、これが「オランダ橋」の別称の由来となっている。

 平戸城

松浦家八百年 
山鹿素行の叡智 

■北虎口門と狸櫓(右奥の建物)〜城内側

■狸櫓の右に、上に延びる土塀の石垣に設けられた「石狭間(石垣にあけられた狭間)

■地蔵坂櫓
写真左は城内側、右は北虎口門前、城外からの地蔵坂櫓。

見奏櫓

懐柔櫓

▽土塀

▽天守下からの見奏櫓周辺

方啓門跡からの平戸城登城口

■懐柔櫓
左に見える赤い橋は平戸大橋。

(左)亀岡公園広場(二の丸御殿跡)から見る本丸跡

(左下)方啓門跡

(下)大手門跡

●幸橋

■北虎口門と狸櫓(左の建物)〜城外側

▽天守より見た本丸前門辺り

▽見奏櫓から見る天守

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■北虎口門 石垣と石垣の間にのった「櫓渡り門」様式で、城内に現存する唯一の木造遺構。 1706年(宝永3)建造。

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