このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

史跡人吉城跡
ひとよしじょう
【別 名】 三日月城、繊月城(せんげつじょう)
【所在地】 熊本県人吉市麓町
【地形種類】 平山城
【築城年・築城者】 建久10年(1199)、相良長頼(さがら ながより)。文明2年(1470)頃、相良為続(ためつぐ)。天正17年(1589)、相良長毎(ながつね)。
【文化財指定区分】 国指定史跡(近世城跡部分・昭和36年9月2日) 平成15年8月・中世城跡部分追加指定
【遺 構】 石垣、井戸を備えた地下室、曲輪跡、門跡、移築門(堀合門)
【復元・整備】 平成5年に多門櫓・角(すみ)櫓・長塀を復元

▼角櫓と後方の丘は本城(内城)
 
日本三大急流のひとつに数えられる球磨川に面した人吉城の総曲輪に復元された角櫓・長塀と、後方の小高い丘
に残る石垣群は「高御城(たかおしろ)」と呼ばれた本丸・二の丸・三の丸などの本城(内城)が築かれている詰城部分。

【歴 史】
 人吉城は、もともと平氏の代官がいた城であったが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉庄の地頭として着任した相良長頼(さがらながより)が、平頼盛の代官矢瀬氏を滅ぼして建久9年(1198)に城主となり、翌年より修築したと伝えられている。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言われている。実際には応仁の乱後の文明2年(1470)頃、第12代当主、相良為続(ためつぐ)によって築城されたようである。 

 豊臣秀吉の天下統一後、天正17年(1589)に第20代相良長毎(ながつね)は豊後から石工を招き人吉城の整備を始め、慶長6年(1601)には御本丸・二の丸・堀・櫓御門(中御門と推定)まで完成。慶長12年(1607)から川沿いの石垣を築き始め、寛永16年(1639)に幕府に気がねして石垣工事は中止されたが、このときには近世人吉城はほとんど完成していたと考えられる。なお、相良氏は、長頼を初代にして、35代におよぶ城主の家系である。

 人吉城は、2度の大火にあっており、文久2年(1862)の「寅助火事」では、城内の建物がほとんど焼失。御館北側に位置する「武者返し」と呼ばれている石垣は、「はね出し」という工法で防火のために造られた。この工法は、函館の五稜郭や江戸湾台場など日本では数例見られるヨーロッパ式の石垣。明治4年(1871)の廃藩置県によって城内の建物は立木とともに払い下げられ石垣だけが残る。


 
▲堀合門跡と「はね出し石垣(石垣上)」

 人吉城模型写真
(江戸時代末期の人吉城の様子を復元)
■球磨(くま)川と胸川を天然の堀とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は2.200mもある。本丸には天守は建てられず、二階建ての護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷(御館・みたち)があった。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれた。
■室町時代の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や堀切によって守られていた。人吉城が石垣造の近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、51年後の寛永16年(1639)に現在見られる本丸・二の丸・三の丸と石垣群、総曲輪が完成。
部分には、今は水ノ手橋が架かる。
縄張の特徴〜戦国期城郭を色濃く残す上原城、中原城、下原城と、本丸、二の丸、三の丸などの本城(内城)、そして麓の藩主居館と家臣団屋敷地に再編された御館、外輪で構成される。

 

 

 


球磨川(人吉城の外堀)
 球磨川は城の北辺にあたり、中央の建物は角櫓と長塀。


球磨川沿いの総曲輪石垣

胸川と復元された長塀・多門櫓
 胸川は、人吉城西辺を流れる球磨川の支流。写真には写っていませんが、多聞櫓の右が大手門跡となる。


胸川(人吉城西辺)
 大手門跡に向かって右側の様子。
復元建造物
<多門櫓・角櫓・長塀(平成5年完成)>
【写真上】
 復元された左端の角櫓と、角櫓から右端の多門櫓まで続く復元の長塀。右端の櫓は、一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。人吉城の多門櫓は、城の正面である大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。幕末になると「代物櫓」として使用された。川は球磨川の支流の胸川。

【写真左】

 球磨川とその支流の胸川の合流点に建つ角櫓。

角櫓(城外側)
 人吉城北西隅の要所に建てられた、本瓦葺入母屋造り平屋構造の建物。明治時代初期まで残っていたが、城内の他の建物や樹木とともに民間に払い下げられ撤去された。


角櫓(城内側)
 壁は上部が漆喰大壁、下部が黒塗りの下見板張り。

多門櫓(城外側)
 大手門の北側石垣上にある大手門の脇を固めるために造られた長屋風の櫓。本瓦葺入母屋造り、鍵形の平屋構造の建物。外面の突き上げ窓は防衛のためのもの。右の石段は船着き場。


多門櫓(城内側)
 角櫓と同じく、壁は上部が漆喰大壁、下部が黒塗りの下見板張り。角櫓と同様、明治時代初期まで残っていたが、民間に払い下げられ撤去された。

長塀と石落とし(城外側)
 長塀は瓦葺の土塀で、外面は上部を漆喰壁、下部に腰瓦を張り付けた「海鼠(なまこ)壁」。


長塀と石落とし(城内側)
 発掘調査で石落としの控柱が2ヶ所で確認されたので長塀とともに復元。

多門櫓(代物櫓・左端)と土塀
 多門櫓の後方が大手門跡。


角櫓(右端)と土塀
 角櫓前は、軍役蔵跡、買物所跡。

大手門跡
 胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所にあったので、石垣上に櫓を渡して下に門を設けた。


大手門跡(城内側)

 

本城(内城) 探訪

はね出し石垣
武者返し(むしゃがえし)
 御館北辺にあるこの石垣上には、長櫓があったが、文久2年(1862)の寅助(とらすけ)火事で焼失した。翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、その上端にはね出し工法による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。

 この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年(1853)に品川台場で初めて導入され、五稜郭(函館)や龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されており、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。
水ノ手門跡
 球磨川に面して築かれた人吉城内に入る4カ所の門の一つで、水運のための門であったことからこの名が付けられた。水ノ手門外にあった船着き場は年貢米の搬入などに使われていた。人吉城には川へ下りる出入口が6カ所設けられており、「川の城」であった。


    



間米蔵跡(あいだこめくらあと)
 水ノ手門西側に建っていた。水ノ手門周辺には他に大村米蔵、欠米御蔵がある。間米蔵は、間村の年貢米を納めたと考えられる蔵である。床束(ゆかづか)の礎石が残っている。
 奥側は水ノ手門跡。右の石垣は、はねだし石垣。


    



御下門跡(おしたもんあと)
 御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。
 大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に櫓を渡し、その中央下方を門としていた。門を入った奥には出入監視のための門番所があった。

    



中御門跡
 門奥の石垣は二の丸跡。写真下は城内から見た中御門跡。



    






三の丸跡

三の丸から二の丸を望む


二の丸跡

二の丸の石垣遺構


本丸への階段

本丸跡
 本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。天守は建てられず、護摩堂が建てられた。礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡。

堀合門(ほりあいもん)
 堀合門は、城主の住む御館の北側入口に置かれた門。江戸時代末期の大火事でも焼け残り、廃藩置県後、城内建物を取り壊すときに、土手町に住む新宮家に移築された。

 門は薬医門形式で、現存する唯一の人吉城の建造物であり、「市指定有形文化財」となっている。

 【人吉城歴史館】

       
(写真中)人吉城歴史館内部 (右)参勤交代に使用された「人吉藩御座船復元模型」

              
地下室遺構<人吉城歴史館>
 全国的に類例のない井戸を備えた特殊な石造りの地下遺構。東西が6m、南北が5.2m、深さは3m。地下室には北東角と南西角に石階段の出入口がついている。西側中央部には湧き水を湛える深さ2.3mの井戸があり、その底には日本刀一振りが沈められていた。
 寛永17年(1640)の人吉城絵図にある相良清兵衛屋敷内の二階建て「持仏堂」の位置に相当する。建造当時の姿に石積を復元している。

 
からくり時計が迎える人吉駅
 からくり時計〜時をつげる太鼓の音とともに、人吉城の殿様人形たちが飛び出す。

{アクセス}
 JR肥薩線「人吉駅」下車 徒歩15分


地域別訪問城に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください