このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

      【井風呂谷川砂防三号堰堤の概要】
■井風呂谷川砂防三号堰堤は、明治33年頃に築造された堤高7.3m、堤長約40mの巨石による空積堰堤である。その後2度にわたる修築を経て、全高11.6m、全長72.5mという大型の石造砂防堰堤として現在に至っている。修築の経過から、明治33年頃に造られた1段目、明治44年頃に嵩上げされた2段目、昭和初期に再嵩上げされた3段目に分かれる。1・2段目は明治期特有の空積、3段目は大正末期以降に普及した練積が使われている。明治期に同河川で施工された十数基の巨石空積堰堤の中で、最大かつ保存状態が最良の構造物で、岡山県の近代砂防を代表する遺産である。
■全国的にも、現存する明治期の砂防堰堤の中で、堤高10mを超える巨石による空積堰堤は希少であり、わが国の近世から近代へと受け継がれていった伝統的な砂防工の流れを伝える代表的な作例の一つである。また、三号堰堤の周辺は国内でも最初期の砂防学習ゾーンとして井風呂谷川砂防公園が整備されており、文化財を存置するに相応しい良好な環境で、自然の中で楽しく遊びながら昔の人々の知恵や工夫を学べる空間を創出している。
※空積:石を積み上げる際、隣り合う石と石の間に砂利を詰めて積む工法をいう。
※練積:石を積み上げる際、隣り合う石と石の間にコンクリートを詰めて積む工法をいう。
(現地案内板より)
■井風呂谷川(いぶろだにかわ)を含む槙谷川一帯のこの地域は渓谷の底部に位置し、農作物の収穫は豊穣とは言えず、また他に産業もなかった。また、幕末の時期には高梁川舟運の発達に加え、土木建築の木材需要の増加で周辺の山林は濫伐暴採が甚だしかった。この地域は花崗岩・石英班岩地質で、瀬戸内の乾燥小雨な気候により、表土が風化土であっても土壌になりにくく、樹木の生育・回復が緩慢で荒廃しやすい条件がそろっていた。この様なことから、周辺の山地が禿山になり、明治期に入って立て続けに発生した水害により、大量の土砂が流出し村人たちの生活をおびやかしていた。
■今を去る300年以前に備前藩主池田光政の家臣熊澤蕃山は、承応3年(1654年)の岡山城本丸が浸水した大洪水を再発させないという悲願のもとに、治山治水対策に取り組み藩費によって山腹工等を随所に施工した。そして維新後になって、蕃山の治山治水を研究し土砂防止の必要を痛感した宇野圓三郎氏の尽力により、明治16年(1883年)1月全国で初めての砂防の法律ともいえる「岡山県砂防工施工規則」が発布され、ここ、賀陽郡見延村(現在の総社市)を含む4カ村の山地で、県営砂防工事として石堰堤、谷留石巻工が実施された。圓三郎氏は村人を情熱的に説得し、誠実に教え励まし続け、村人も無給でこの工事に携わった。その結果、土砂の流出が抑えられ防災上著しい効果があったと言われている。これが岡山県における近代の砂防工事の発端となっている。ここに現存する井風呂谷川砂防三号堰堤(えんてい)は、明治33年頃に巨石巻によって築造されており、平成14年3月国土の歴史的景観に寄与している文化財建造物として、文化庁の「文化財登録原簿」に登録された。 (現地説明板より)
【井風呂谷川砂防公園周辺図】
「所在地」総社市見延地内
「交通」国道180号線の信号[明治橋]から豪渓に行く途中、槙谷川の支流井風呂谷川中流の見延にある。豪渓に向かって行く途中に案内標識があり、そこを右折してすぐの所にある。

「駐車場」無料駐車場あり
「見学」自由


          
砂防工碑
砂防発祥の地「記念碑」
(上)砂防学習ゾーン
歴史に残る砂防設備を積極的に保存しながら、地域の人々に砂防に対する啓発活動を展開することを目的に、砂防設備の周辺環境を整備した区域。案内図は現地説明板に加筆・引用。
(左)砂防公園の様子

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