このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
 戦国大名・朝倉氏が越前を治めた際の政治・文化の中心地で「国の特別施設・特別名勝・重要文化財」と国の三重指定を受けた中世唯一最大の文化遺産。孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄した。

■朝倉氏の歴史
 朝倉氏はもと兵庫県養父郡の武士でした。一乗谷初代孝景(たかかげ)は、応仁の乱(1467〜77年)で西軍に参加していましたが、文明3年(1471)東軍に寝返り、ここ一乗谷に居城を移したと言われています。主家であった越前守護斯波氏や守護代の家柄の甲斐氏との戦いは2代氏景(うじかげ)まで繰り返され、3代貞景(さだかげ)が永正3年(1506)の加賀一向一揆を撃退したことにより、越前一国の安定が達成されました。

 4代孝景(たかかげ)は、近江、美濃などの諸国にたびたび出兵し、また京や奈良の公家、僧侶などの文化人が下向してくるのを庇護しました。5代義景(よしかげ)は、後の15代将軍足利義昭を一乗谷の安養寺の御所に迎え、また南陽寺の観桜宴等で歓待しますが、義昭を奉じて上洛することはしませんでした。天正元年(1573)織田信長との刀根坂の戦で敗北し、戦国大名朝倉氏はついに滅亡、一乗谷の町は戦火によって焼土と化したのです(文は現地リーフレットより。以下同じ)。
 
 一乗谷の谷が最も狭くなっている地点2ヶ所を選んで築かれた一乗谷への出入口には、石垣や堀・土塁で城門(上・下城戸)が築かれ、狭い地形を利用した防御施設で固められていた。今も上城戸(うえきど)・下城戸(しもきど)ともに遺構が現存している。

 現在上城戸は幅13m、高さ5m、長さ50mの土塁。下城戸は幅18m、高さ5m、長さ20mの土塁がわずかに残っている。上・下の城戸間は約1.7kmあり、「城戸ノ内」と呼ばれ、城主の居館、重臣の屋敷等が密集していた。

下城戸〜巨石を積んだ枡形の城戸口

上城戸〜土塁が残る

◆戦国武将・朝倉氏の足跡をたどる◆

 ■朝倉氏遺跡は、福井市街の東南約10kmに位置する戦国時代の城下町の跡で、400年以上もそっくり埋もれて残されてきたことで有名です。昭和46年に278haが国の特別史跡に指定され、史跡公園として発掘・整備が進められています。また、平成3年には遺跡内の4庭園が国の特別名勝に指定されました。
 城下町は、東の一乗谷城(詰城)、西の東郷槇山城、北の成願寺城、南の三峰城で厳重に守られています。一乗谷川に沿った狭い平地部では、朝倉氏の館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人達の町家が道の両側に所狭しと建てられていたことが発掘で明らかとなっています。

■福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
   (福井市安波賀町4ー10)
 朝倉氏遺跡をたどる前に、まずは資料館に立ち寄ってみることをお勧めします。一乗谷の地形模型や朝倉館の復元模型、出土した遺物が展示されており、 長年の発掘調査の結果、遺跡からは陶磁器をはじめとして石製品、木製品、金属製品、紙片、骨、自然遺物などが多量に出土している。

 展示室では、これらの出土遺物や模型などを中心にして、朝倉氏の歩み、朝倉氏の戦い、住居、日常の道具、中世の経済活動と朝倉氏遺跡の各テーマを設け、城下町一乗谷に住まいした1万人余りと推定される戦国時代の人々がどのような生活を営んでいたかをわかりやすく展示している。

▲下城戸口
この先に、戦国時代の大規模な城下町が眠っていた。


▲下城戸の土塁

▲平面復原地区


▲復原された状況

▲一乗谷川
後方は、5代城主義景(よしかげ)の朝倉館跡。

▲土塁と堀で囲まれた朝倉館跡
一乗城山を背にして、南・西・北に一辺およそ100mの堀と土塁をめぐらしている。


▲朝倉館(あさくらやかた)
 朝倉義景館西門跡に建つ松雲院唐門と、後方は館跡庭園。

▲松雲院唐門(しょううんいんからもん)
 朝倉義景の菩提を弔うため、館跡に建てられた松雲院の山門。豊臣秀吉の寄進といわれ、朝倉家の家紋も刻まれている。江戸中期の再建。

▲朝倉義景館跡(西面)
 この館は第5代義景の住まいした所で、山城を背にして西を向き、西側の唐門(江戸時代に建立)から入る。土塁の両端には、隅櫓を構えていた。館跡東側の山際にある朝倉館跡庭園は、その洗練された石組に京都との交流が偲ばれる。


▲朝倉義景館跡の唐門(左端)と土塁・堀
 朝倉館跡は三方に堀と土塁が巡り、6400㎡の敷地に17棟の建物が整然と配されていた。右端の土塁上には隅櫓が建っていた。

■庭園跡から見下ろした朝倉館跡
 朝倉館は、谷の中央部に開けた山すその平地に建てられた。
■朝倉義景館
 内部には10数棟の建物群がみられ、これらは大きく2つに分けられる。1つは主殿を中心として南半に位置するもので、接客の機能を持ち、会所や数寄屋・庭園等もみられる。

 もう1つは常御殿(つねごでん)を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や持仏堂・湯殿等もみられる。この他、厩(うまや)等も存在した。

 建物はすべて礎石の上に角柱を立て、舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょうじ)といった引戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かった。また屋根は柿(こけら)板等で葺いていたと考えられている。書院造の成立過程を知る上で欠くことの出来ない貴重な遺構である。
■朝倉館復元模型(朝倉氏遺跡資料館展示)
 この復原模型は、発掘調査によって明らかになった朝倉館(義景当時)を、洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)に描かれた細川管領邸(ほそかわかんれいてい)などを参考にして推定復原したものである。

 館内の10数棟の建物は、中央南よりの主殿を中心とする表向(おもてむき「接客」)施設と、その北(写真左側)の台所などの内向(うちむき)施設に大別される。この模型は、日本の住宅史において、時代的にも様式的にも、江戸時代初期に完成される書院造の先駆として貴重な例である。

▲朝倉館跡内側から望む唐門と土塁

▲隅櫓跡
朝倉館跡西南隅の隅櫓跡(館内側)


▲朝倉義景公墓所
朝倉館跡の東南隅にある石造りの墓。

▲朝倉館跡と館跡庭園
朝倉義景館跡北門側の眺めと、写真下は力強い滝石組、護岸石組を持つ義景館跡庭園。庭園は完全に埋没していたが、昭和43年の館跡の調査で発掘された。



▲特別名勝 朝倉館跡庭園

■朝倉館跡から朝倉氏庭園(一部分)を望む
 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡には、庭池の周囲に豪壮な庭石組を伴った林泉庭園から、数個の立石・伏石と小礫の化粧敷からなる枯淡な枯山水平庭まで数多く遺存する。それらの内で湯殿(ゆどの)跡・諏訪館(すわやかた)跡・義景館跡・南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991)5月28日、国の特別名勝に指定された。

 義景館跡庭園を除いた3庭園は、庭石組などが地上に露出していたこともあり名園として知られるところで、昭和5年(1930)すでに国の名勝に指定されていた。しかしその後の管理が不十分でかなり荒廃していたので、昭和42年庭池の堆積土の除去や周囲の雑木の伐採などが行われ整備された。また昭和62年には湯殿跡・諏訪館跡で、庭池に導水するための石組溝や暗渠が発掘された。

 山地を背景に凝灰角礫岩の立体的庭石組がなされている。湯殿跡庭園が最も古く、他の3庭園は義景時代の作庭で、庭石組の形式もよく類似する。後世に改変されることなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えている。
■湯殿跡庭園
 館跡を見下ろす山腹にあり、先ず荒々しい石組に驚かされる。どの石も強い表情を持ち迫力がある。鶴岩亀岩を思わせる中島や出島があり、水路が山際に沿って南から北に走り滝口に注ぐ池泉庭園になっている。

 他の庭園とは様式も感覚も異なり、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の、廻遊式林泉庭園である。

▲中の御殿側から見た湯殿跡庭園

▲湯殿跡庭園側から見た中の御殿跡


■中の御殿跡
 中の御殿跡(なかのごでんあと)は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられている。この高台は、南陽寺跡や湯殿跡、諏訪館跡とならんで義景時代の華やかな生活の場であり、朝倉義景館近傍の屋敷に朝倉氏当主の妻子などが居住したであろうことが想像できます。

 屋敷の外側には土塁や空堀を廻らしており、屋敷内からは、建物跡、庭園跡などが検出されている。平地の建物跡の後方は土塁。
■諏訪館跡庭園
 諏訪館は朝倉義景の妻「小少将」の屋敷跡と伝えられる。庭園は遺跡の中でも最も規模の大きい、廻遊式林泉庭園である。

 中心の4m余りの巨石は、滝石組をなしており、全体に水平感と垂直感を基本にして安定感のある構成になっている。この石には江戸時代末に彫り込まれた3代貞景、4代孝景等の法名を刻んで供養している。

▲中の御殿跡から見た諏訪館跡庭園

▲一乗谷川側から見上げる諏訪館跡庭園



▲町並立体復原地区
道路左側には一乗谷川が流れ、朝倉館跡が位置する

■大規模武家屋敷群
 この地区は、「一乗谷古絵図」に、朝倉氏の有力家臣の名が多く見られる所で、これを裏付けるように、発掘調査では、計画的に造られた道路と、これに沿って整然と配置された多くの大規模な屋敷跡が検出された。

 これらの屋敷の敷地間口の多くが、約30mもしくはこの1.5倍や2倍となっていることから、約30m(100尺)を基本単位として計画されていたと考えられている。

▲復原された町並み
朝倉館の向かいの武家屋敷跡に、約200mにわたって復原された町並み。ここでは、塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路をはさんで、武家屋敷や庶民の町家が形成されていた様子がリアルに再現されている。発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されている。


▲復原町並み屋内の様子
出土品からの推定により、屋内には土間や板の間・引き戸・開き戸などの細部までを復原し、そこに生活していた人々の様子を立体的に再現している。

▲復原武家屋敷
東西30m、南北30mの敷地をもつ武家屋敷を復原。発掘では、土塀の2ヶ所に門を開き、中央に東西11.3m、南北7.5mの主屋が、東南隅に一間半四方の茶室、庭などが発見された。



▲復原武家屋敷の内部
復原された建物は、発掘遺構面に60cm土盛りし、当時の材料、工具、技術等を十分に検討して建てられた。
【交通ガイド】
■バス/京福バスターミナル(浄教寺・鹿俣行)→25分朝倉氏遺跡資料館前→5分朝倉館前(1日12往復、土・日・祝日は6往復)
■電車/JR福井駅(越美北線)→15分一乗谷駅下車(1日8往復)
■車/北陸自動車道福井I・C→国道158号10分→朝倉氏遺跡


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