このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
<伊賀上野城データ> | |
所在地 | 三重県伊賀市上野丸の内 |
別 名 | 白鳳城(はくほうじょう) |
築城年/築城者 | 天正13年(1585)筒井定次。その後、慶長13年(1608)に築城の名手・藤堂高虎が大拡張 |
地形種類 | 平山城。高石垣で囲んだ梯郭式の堅固な城郭 |
文化財区分 | 国指定史跡(城跡) 市指定文化財(復興天守) |
遺構/現状 | 石垣、堀、本丸。上野公園として整備。天守が昭和10年に再建(復興) |
沿 革 | ■“忍者の里”と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた9里四方の小さな盆地、その中心は上野城下町である。町の北側の丘には、白亜三層の伊賀上野城が、静かな雰囲気を醸しながら、端麗な姿を見せていて、白鳳城の雅名がある。 ■天正13年(1585)、伊賀の国を領した筒井定次(つついさだつぐ)が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、慶長13年(1608)、定次を失政を理由に改易、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り、自ら縄張を指図、本丸を30mの高石垣で囲み、筒井古城を大拡張した。しかし竣工直前の五層大天守は、慶長17年(1612)9月2日の暴風雨で倒壊、そのうち大阪夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止され、城代家老が執政することとなった。 ■現在の天守は、昭和10年(1935)、地元の名士川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建、伊賀文化産業城と称した。城跡は昭和42年(1967)に国史跡に、天守は昭和60年(1985)に伊賀市の文化財に指定されている。 <現地リーフレットより> |
▲上野城本丸西側の内堀と高石垣〜石垣上の建物は復興天守
<筒井定次築城の上野城跡(筒井古城跡)・藤堂高虎築城の上野城跡> | |
<上野公園案内図は城内説明板より転載・加筆> ■筒井古城跡の高台に平楽寺とよぶ伽藍があったが、天正9年(1581)織田信長軍の侵攻にあって焼失した。世に言う「天正・伊賀の乱」である。この乱後、伊賀国主となった筒井四郎定次は城塞の大修築を行なった。高台の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守を建て、本丸東側丘陵とは堀切で区切り、西に二の丸、北の山下に三の丸を配し、三の丸の北谷口を大手とした。現在の城跡とは逆の縄張であった。 ■その後、伊賀・伊勢の領主となった藤堂高虎は、筒井氏の城郭を取りこみ拡張した。本丸を西に拡張し、とくに大阪方(豊臣方)に備えるため、西方には広大な高い石垣をめぐらし、大手を南に入れかえ、城代屋敷は筒井古城本丸跡に置かれた。また城下町を南へ移して、完全に武装した軍備の町を建設した。 | |
<筒井古城跡> | |
▲筒井古城本丸跡の石垣 | ▲桝形虎口 石段上が筒井古城本丸跡。 |
▲本丸跡 筒井古城は、現天守が建つ所より東の一段高い小丘に築かれた。江戸時代には、ここに城代屋敷が置かれた。 | ▲筒井古城本丸跡から望む現大天守と小天守 |
<藤堂高虎が築城した現在の上野城> | |
▲本丸表門跡 | ▲打込接(うちこみは)ぎの大天守台石垣 |
■大天守(三重三階)と小天守(二重二階)■ | |
藤堂高虎が築いた天守台の一部に復興した純木造天守 大天守(右)と小天守(左)〜大天守は、小天守を伴った連結式の形で復興した層塔型 | |
▲大天守〜伊賀の産業陳列館として「伊賀文化産業城」と名づけられて、昭和10年10月18日に完成。 | ▲小天守 |
▲小天守の南西側に建つ築城記念碑 | ▲天守への石段〜手前が小天守、奥が大天守。登閣料が要りますが、天守以外は散策自由。 |
▲大天守1階 | ▲大天守2階 |
▲築城を祝う名士の揮毫 上野城天井絵巻 | ▲展望所でもある天守3階から筒井古城跡を望む |
本丸の周囲から内堀と高石垣を眺める | |
▲本丸西側の内堀と高石垣 | |
本丸西側と北側の高石垣 打込接(うちこみはぎ)による高石垣は、大坂城に並ぶともいわれる。 藤堂高虎の石垣は、名築城家といわれた加藤清正の石垣にくらべ、反りが少ないのが特徴。 | |
本丸高石垣の上から内堀と高石垣を眺める | |
▲本丸西側を南から北に向かって見た内堀と高石垣 | |
▲曲輪上から望む石垣と堀。右写真も同じ | |
▼算木積みの反りのない直線的な高石垣は、高虎の築城技術の高さを示す | |
◆伊賀上野城の関連施設◆ | |
伊賀上野城周辺図(駅前の案内板に加筆) | |
白鳳門(模擬)〜門を抜けて、突き当りが本丸表門跡。 | 赤門〜藩校崇廣堂(すうこうどう)の紅殻塗りの表門。 |
藤堂藩藩校(国史跡・旧崇廣堂)〜文政4年(1821)、津藩の藩校有造館(ゆうぞうかん)の支校として建てられた。 | 手当蔵(旧武器庫)〜藤堂藩の武器庫。上野高校に同窓会館として残る。 |
俳聖殿〜上野城内の北東にある俳聖松尾芭蕉を顕彰する施設。芭蕉生誕300年を記念して、昭和17年(1942)完成。 | 伊賀流忍者屋敷〜上野城内の俳聖殿の近くにあり、忍者が用いるからくりのある屋敷を移築したもの。 |
西大手門跡 | 西大手門跡の辻〜この道は、通称赤門通りとよばれ、突き当りに藩校崇廣堂が建つ。 |
本町筋銀座通りの辻〜東大手門付近。 | 伊賀鉄道「上野市駅」前の松尾芭蕉像〜松尾芭蕉(1644〜94)は伊賀上野で生まれた。 |
伊賀鉄道「上野市駅」ホームから眺める大天守 | 伊賀鉄道「上野市駅」と右は伊賀上野城大天守〜本丸まで駅から徒歩6分。 地域別訪問城へ戻る |
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