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日本屈指の海城。県指定史跡

今治城

今治(いまばり)城跡と瀬戸内海現存する内堀と主郭部を望む

【所在地】愛媛県今治市通町

■“築城名人”藤堂高虎像と天守
 今治城は、慶長9年(1604)9月に藤堂高虎によって完成。普請の開始は慶長7年(1602)6月で、海岸近く、三重の堀をめぐらし、内堀まで海水を引き入れて、当時としては類のない平地平城を築城、開町後今張の浦を「今治」と改めた。

■今治城天守(再建)  現在の今治城天守は、昭和五十五年(一九八〇) 今治市制施行六十周年記念事業として再建された。  望楼型、五重六階、鉄筋コンクリート造りの天守は、可能な限り史実に沿うため、丹波亀山城古写真(移築後の今治城天守が明治十年まで存続)、今治城古写真、貞享・安永の今治城絵図、藤堂家の家譜「宗国史」などの資料をもとにして再建。
今治城

今治城の特徴は、広大な水堀と高い石垣です。全国的にも珍しい海水を引き入れた海岸平城で、日本三大水城の一つ
【縄 張】
           今治城絵図(江戸時代)
            
  
安永八年(1779)に作成された今治城の絵図です。今治松平藩の武家屋敷が詳細に記され、城郭の有様が、青色は堀、緑色は土手・犬走り、黄色は道、ピンク色は櫓、濃ピンク色は土塀、という様に色分けされて描かれています。今治城を築城した藤堂高虎は、二十万石余の大大名でしたが、その跡を継いだ松平藩は三万五千石の小大名でした。

 城郭の規模の割には石高が少ない松平藩では、城郭の維持管理もままならず、壊れるにまかせて放置された建物もあったようです。この絵図は現存する今治城の絵図中で最も正確なもので、内堀、中堀、外堀の三重の堀を巡らせた広大な平城であって、堀の幅が大変に広い今治城の特色がよく判ります。堀には海水が引き込まれ、中堀の一部が舟入となり、海から船が出入り出来る様になっていました。
広い堀、多聞櫓を建て回した本丸、犬走り、どれも藤堂高虎の築城の特徴であり、高虎が後々手がけた多くの城に応用されています。(説明板より)
 
 
現在の今治城は、中央の濃い青色部分、内堀に囲まれた本丸・二の丸・三の丸が残る。下の城図は、現在の今治城を描いたものです(現地説明板に追記)。
 
         

         
 神社の建っている場所が、今治城の本丸跡です。本丸は城の本部で、戦闘のときには命令を出す指揮所となります。藤堂高虎の建てる天守は、本丸のまん中に位置する事が多く、今治城の天守も神社のあたりに存在していた可能性があります。

【特 徴】
 今治城は、別名を吹揚城(ふきあげじょう)といいます。今治城が築かれたこの場所が、砂が吹き揚げられて出来た砂浜だったからです。初め藤堂高虎は、ここより南方約5キロにある国分山城に入城したのですが、そこを廃して地盤の軟弱な海浜にあえて築城した目的は、瀬戸内海航路の制海権にありました。それは、交易路として莫大な富をもたらせるという経済的意味と、西国大名の交通路を押さえるという軍事的重要性がありました。

 堀と石垣の間に、犬走りがあります。犬が走れる程度の狭い空間という意味です。敵に攻められた場合に足場にされるという欠点がありますが、今治城のように、軟弱地盤の上に高石垣をともなった大城郭を構築する場合には、石垣の基礎部分を固める非常に有効な土木技術上の工夫でした。

 堀の水は海水です。堀は海とつながっていて、海水の満ち引きによって堀の水位が変わります。鯛やヒラメなどの海水魚が泳いでいますが、一番よく目につくのはチヌとボラで、他にサヨリやウナギや海老類が生息しています
城内説明板より転載)。

 天守から内堀、今治内港、瀬戸内海を望む。今治内港は舟入跡で、藤堂高虎が設けた船の係留施設。中堀の北端に位置し、外堀を経て海に通じていた。高松城、中津城と併せ日本三大水城。


石垣の周囲に設けられた犬走り

上から見た犬走り


今も内堀に流れこむ瀬戸内の海水。右方向が瀬戸内海。

内堀側から見た今治城海水導水路

【今治城の歴史】<現地案内リーフレットより転載>
■戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の村上武吉が居城としていたが、天正13年(1585)秀吉による四国征伐で侵攻した小早川隆景に戦う事なく開城。伊予平定後の隆景に国府城を含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年筑前名島に転封。代わって福島正則が東予11万石を領し、翌年国府城に入城。8年後の文禄4年清洲城に転封。その後、池田景雄(慶長の役で1598年戦死)、小川祐忠(関ヶ原の合戦で西軍に加わり改易)と城主が変わり、慶長5年藤堂高虎が城主となった。

■高虎は浅井長政に仕えて、15歳で姉川の合戦に初陣。その後、天正4年羽柴秀長に仕えて、天正13年雑賀根来一揆征伐の功で1万石、同15年九州征伐の功で2万石を領するが、秀長、その嗣子秀俊が相次いで没し、高虎は二人の菩提を弔うために文禄4年高野山で出家。秀吉は才を惜しみ、同年7月招いて伊予宇和郡7万石を与えた。高虎は父と共に大洲に入城し、板島城(宇和島城)築城にかかる。慶長3年朝鮮再征の功で1万石加増。翌年諸侯に先んじて弟正高を人質に差出す。関ヶ原の合戦では、福島正則と共に徳川軍の先陣で活躍。その功で12万石加増され、伊豫半国20万石の大名として国府城に入城した。

■藤堂高虎は、発展性に乏しい山城の国府城を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通や経済発展にも便利な、20万石の大名に相応しい城郭と城下町を建設するため、城域を越智平野中央の今張に定めた。山城の戦略的城郭から、平城の政治的城郭へと脱皮を図ったのである。慶長7年6月11日に普請を開始、慶長9年9月に完成。その広さはおよそ八町十六間四方、現在の金星川以南、旭町以東を城域とし、三重の堀に海水を引き入れ、南方は総社川、東方は瀬戸内海を自然の守りとした大規模な海城であった。本丸には高さ八間の石垣の上に五層高楼の天守があり、ニ之丸に藩主館、中堀以内に上級武士、外堀以内に侍屋敷が、要所要所には城門や櫓をもうけた。石積みは自然石をそのまま使う野面積みで、軟弱な地盤を補うために、本丸、ニ之丸の石垣の下に、犬走りを巡らせた。

■高虎は慶長11年に江戸城縄張の功で備中に2万石加増され、22万石となった。同年妻子を江戸に移り住まわせ、これが後の参勤交代の基になったといわれている。慶長13年(1608)高虎は伊賀一国と伊勢8郡に転封となり、今治2万石には藤堂高吉を処守で残し、伊勢津城に去った。そのさい天守は解体し、大阪まで運び、慶長15年(1610)天下普請の丹波亀山城に移築した。亀山(現亀岡市)は近畿の枢要地で、大阪城の豊臣秀頼に心を寄せる諸大名に備えて、要所を固めんとする家康の意図をくみ取り、伊賀上野城に移築するつもりの今治城天守を亀山城に移築した。高吉が約27年間処守を努めた後は、寛永12年(1635)家康の甥の松平定房が3万石で就封し、松平家の居城として明治維新を迎えた。


【遺 構】 本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、内堀、石垣  ※主郭部跡と内堀が県指定史跡
             
             南から望む反りのない直線的な高石垣と、瀬戸内海の海水を直接引き込んだ水堀(内堀)
 <堀端から望む再建造物>
天守、櫓、城門などが復元整備。高虎の築城以来約400年後の1980年(昭和55年)に市制60周年記念事業として天守、多聞櫓、武具櫓、
1985年(昭和60年)に御金櫓、1990年(平成2年)に市制70周年記念事業として、山里櫓、2007年(平成19年)に鉄御門が再建。
《天 守》
寺院の五重塔のようなシンプルな形式の「層塔型天守(五重六階)」

天守手前、多聞櫓先の台形状石垣は西隅櫓跡、右端は南隅櫓跡、樹木部分は本丸跡(現在は神社が建つ)

《左端より、武具櫓・山里櫓・天守》

山里櫓(中央の建物・二重櫓)は馬出(搦め手)口に置かれた。左端、武具櫓(ぶぐやぐら)右は鉄御門(くろがねごもん)

《御金櫓》
二の丸跡の東隅に建つ

左端の石垣上は南隅櫓跡、御金櫓(おかねやぐら・二重櫓)の右後方は天守、写真には写っていませんが右端には鉄御門が建つ


“鉄御門”再現復元

 
三の丸大手口の表門になる鉄(くろがね)御門の上層には多聞櫓が附属する。鉄御門・武具櫓は木造の復元建物


北から望む鉄御門一帯
 この場所は、枡形や附属する多聞櫓、武具櫓によって厳重に守られていた。

土橋突き当り右が鉄御門


高麗門跡
 鉄御門の手前にあったもう一つの城門(高麗門)。高麗門と鉄御門の二つの城門で、攻めてくる敵を食い止め、さらに二つの城門に挟まれた四角形の広場(枡形)に敵が侵入すると、周囲の多聞櫓から攻撃を加えることができた。最も守りが固い虎口(城の入口)構造で、藤堂高虎がが創始した築城術の一つである。
 灰色のペイントは、高麗門の両側にあった袖塀の石垣跡です。真ん中の大きな石は勘兵衛石。


勘兵衛石(かんべえいし)
 今治城で最大の石。城主の権威を示すために目立つ場所に据えられた巨石(鏡石)。石の名前は、今治城の築城奉行と伝わる渡辺勘兵衛に因んだもので、江戸時代には既に「勘兵衛石」と呼ばれていた。
  鉄御門の枡形虎口略図

(現地説明板より)

鉄御門と枡形虎口
 古写真、古文書、発掘調査などをふまえて、史実に忠実に再現された木造建築。石垣修復においても、勘兵衛石を枡形正面中央に据え、発掘調査で出土した大築石などの遺構築石を使用して修復している。


鉄御門(内側)
 鉄御門左側の連なりは、左下写真となる。

武具櫓(中央の二重櫓)と多聞櫓
 内部は公開されており、パネル展示やビデオ放映が行われている。なお、武具櫓の下には、鉄御門に使われていた礎石が展示。


天守から見た鉄御門周辺
 三の丸の大手筋にあたるこの郭は、総鉄板張りの鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓で形成されている。
【吹揚公園全体配置図】
 今治城は堀に海水が引かれた近世の平城で、大手二の丸に藩主の館を、三の丸大手口の表門に鉄御門、馬出(搦め手)口に山里門を置いていました。

 藤堂高虎は、慶長7年(1602年)6月から今治城の普請を開始、慶長9年に完成しました。同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の多くの築城の縄張りに関与しています。従って、今治城は徳川系城郭の雛形と言われています。

 高虎の城づくりは、高石垣、広い堀、大手と搦め手を明確化、虎口の出入口には枡形・方形の区画を設け、郭は四角形の構成を基本とすることが多い等の特徴が見られます。高虎は豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と多くの主君に仕え、城づくりと現場の体験から、高虎独自の工夫と、当時の最先端の技術を活かし、築城の名手として知られています。
 
 今治城は海浜に立地する大規模な平城、層塔式天守、枡形虎口、舟入等城郭築城上、革新的なものが認められています。主要部を水際に置き、陸地部に郭を広げていく城郭縄張りは、坂本城、近江大津城、膳所城、彦根城等の織豊期につくられた琵琶湖湖畔の城郭に多く見られ、これらの城の縄張りを祖形にしたものと考えられます(現地説明板より)。

三の丸跡鉄御門周辺の平面図(現地説明板に追記)

 三の丸表門である鉄御門に使われていた礎石が発掘調査で検出。2つの礎石は鉄御門の正面鏡柱(印)と背面控柱(印)を支える礎石である。礎石は武具櫓下に展示。


<アクセス)
 JR予讃線「今治駅」から徒歩20分。車は内堀の北東側に有料駐車場有。

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