このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

◆城郭ガイド◆

二之丸馬場跡に建つ「亀ヶ城址公園」碑
後方は大手桝形虎口。石垣上には多聞櫓が在った
所在地】福島県耶麻郡猪苗代町字古城跡
【別 名】江戸時代は会津若松城の支城として、亀ヶ城とも呼ばれた
【地形種類】平山城
【文化財指定区分】県史跡
【現 況】本丸周辺は亀ヶ城公園となり、本丸・二之曲輪・帯曲輪の石垣・土塁・空濠が現存
【猪苗代城の歴史】
■鎌倉時代初期に三浦氏の一族佐原経連が、磐梯山の南東麓にある丘陵弦峰に創築したといわれる。以後その子猪苗代氏の居城となる。
■天正18年(1590)猪苗代氏が伊達政宗に従って陸奥岩井郡東山へ移った後は会津若松城の支城となり、蒲生・上杉・蒲生(二次)・加藤(嘉明家)の諸氏に属し、城代が在城。寛永20年(1643)以降は保科松平氏に属し、城代が在城。
明治元年8月21日母成峠を突破した官軍の接近により、城代高橋権太夫は城を自焼して退去し、以後廃城となる。大手門は明治中期まで遺存していたといわれる。明治38年以降小林助治・才治父子を中心とする有志が、荒廃した城跡の主要部を整備して公園とする。昭和33年3月城山公園として都市計画が決定され、昭和44年4月亀ヶ城公園となる。
<文は日本城郭大辞典1より>
【猪苗代城の縄張】
中央の高所に略方形の本丸を置き、南側に二之曲輪、周囲に帯曲輪を配し、東・南に門を開いた。東の麓に二之丸を置き、城代屋敷・馬場などがあり、周囲に水濠を巡らし、東側に中門、北に北中門を開いた。その東・北方に三之丸を設け、東方に大手門、北方に裏門を開いていたが、江戸中期以降は天守や櫓はなかった。
■現在は、二之丸馬場から北中門の前は猪苗代駅に通じる道路となり、二之丸の一部が城址公園、他は多く住宅地となり、中門跡付近に水濠跡の一部が残る。
■三之丸北部は町立猪苗代小学校、東部は猪苗代町役場や住宅地となり変貌が著しいが、大手口の土塁の一部が残る。猪苗代城は中世以来の歴史を有し、近世においては一国一城令の例外をなす藩の支城として特異な存在である。

<見取図は現地説明板に加筆・転載。文は日本城郭大辞典1より>

■猪苗代湖
    
 猪苗代城の南方に位置し、全国第4位の広さを誇る湖  
■世界的に高名な医学博士「野口英世」生誕の地・猪苗代町
野口英世博士三体像レリーフ
 猪苗代町の生んだ偉人として今も町民の尊敬を集める野口英世博士(1876〜1928)は梅毒病原スピロヘータ純培養の成功(1911)黄熱病の研究などで世界的にその名を知られ当時世界の医聖と謳われた方ですが博士の生涯に深い影響を与えた母堂シカ、少年野口の英才を見出し学費を与え勉学の志を助けた小学校訓導小林栄先生、その他多勢の人々の真心を今に伝えるため博士が好んで書かれた直筆の“忍耐”の文字を彫り込み、三体像のレリーフを結成25周年の記念として建立しました。また出生地翁島三城潟には生家が保存され、記念館があります。
<猪苗代ライオンズクラブ説明板より>

JR猪苗代駅前に建つ野口英世博士三体像レリーフ

交通ガイド
猪苗代駅から北へほぼ真っ直ぐ約2km。


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▼二の丸多聞櫓跡の大手桝形虎口
猪苗代城大手口(上記亀ヶ城址見取図の現在地の場所)。前は二之丸馬場跡(駐車場)

霧に覆われた磐梯山と磐梯山南麓
猪苗代城は南東麓(写真右端下)にある丘陵に築かれた

▼本丸跡
本丸周囲は土塁で囲まれている

▼城内の状況
二の丸石垣後方には、巨大な空堀と土塁が残る

▼古式をとどめる二の丸石垣

▼二の丸多聞櫓跡の桝形虎口石垣(野面積み)

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