このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「国指定史跡」石垣山一夜城
■井戸曲輪の高石垣に囲まれた底にある井戸
[所在地]神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪地内
[形 式]陣城(付城)であるが、本格的な総石垣造りの山城であり、天守や井戸曲輪も設けられた
[指定日]昭和34年5月13日/国史跡
[概 略]史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2,5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。また小田原城まで僅か3Kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。

 石垣山は、もと笠懸山(かさがけやま)、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。

 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけではなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。

 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆(あのおしゅう)による野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。現在は、歴史公園として一般に公開しています。(文は現地説明板より)

陣城(じんじろ)は付城(つけじろ)ともいい、城攻めの際、構築。通常は簡易的な仮設である。石垣山一夜城は陣城を本格的な城郭とした日本初の例 訪問日/平成25年(2013)10月

石垣山一夜城の眼下に小田原城がある

小田原城天守閣から望む石垣山一夜城。中央の鉄塔あたり
 ■石垣山一夜城の構造
 石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。小田原城の本丸より227m高く、また小田原城までの距離はわずか3Kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。しかし、実際には約4万人が動員され、天正18年の4月初めから6月下旬までの80日間が費やされました。

 城の縄張は南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については享保5年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。城道は、井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東口ルートの二筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には桝形と呼ばれる屈曲した構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは秀吉の威信を示していました。現在、石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mあります。(文は現地説明板より)
■小田原合戦攻防図
 天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲される。
●中世最大規模の城、小田原城出現〜北条氏の当主氏直(うじなお)は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9Kmに及ぶ長大な大外郭を構築し、決戦に備えていた。結果的に交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、さらに領内100ヵ所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。
●小田原城を包囲する戦国の英雄たち〜豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万とも伝える人々が籠り、豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヵ月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
●秀吉、石垣山城築城〜小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
●北条氏の降伏〜北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、氏直の父氏政(うじまさ)とその弟氏照(うじてる)らに切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。そして、戦国時代は終わる。この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達正宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。この結果、天下統一の事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。(文と図は、現地説明板より)
 
遺構〜曲輪・石垣・井戸・櫓台・天守台


案内図の現在地辺りの様子。この先が右写真の城道(東口)

城道(東口)


城道(東口)石段を登ったところの大手口。度重なる大地震で石垣がずれ落ちたままである。説明板の手前を右に行くと二の丸へと至る


二の丸跡(馬屋曲輪)。本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪。伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようである

二の丸が北へ長方形に張出した所にある展望台。小田原城下が一望できる


二の丸櫓台跡。井戸曲輪に行く道の直ぐ横に残る

 
井戸曲輪跡
 井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(馬屋曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から25mも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または、「さざゑの井戸」とも呼ばれています。
 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。
 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。
(文は現地説明板より)

中央の窪みが井戸跡


井戸跡

二の丸跡から見た本丸(後方の樹木部分)

右斜めに登って行くと本丸に至る。本丸の石垣が部分的に残存


本丸跡。後方に天守台が位置する


天守台跡

西曲輪跡

南曲輪跡


門の基台跡

南曲輪下の石垣(角石)


南曲輪下の石垣(野面積)

本丸物見台からの小田原城と相模湾

 
石垣山農道。この場所は、早川駅まで450メートル、石垣山一夜城歴史公園まで1850mの地点。歴史公園まで登り坂が続き、道沿いには、太閤の小田原攻めに従った武将など8人を紹介する看板が建つ
 
石垣山一夜城周辺図(現地案内板より)
[アクセス]JR東海道本線早川駅から徒歩約40分



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