このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

岩村城

岐阜県指定史跡

【所在地】岐阜県恵那市岩村町

 ■岩村藩主邸(御殿)は江戸時代初期(1610年頃)松平家乗(いえのり)によって創設され藩主は山頂の岩村城本丸から降りて入った。防衛防備に充分の注意をはらい門には番所を置いて出入りを監視し、屋敷内には地下室や地下道もあった。明治2年(1869年)版籍奉還により岩村県となり藩主が知事となると、ここを県庁とした。明治4年(1871年)廃藩置県により知事松平乗命(のりとし)は東京移住を命ぜられ藩主邸は空家となったが、明治14年10月30日夜、失火により全焼してしまった。

藩主邸跡から望む岩村城下町
 <重要伝統的建造物群保存地区>

商家など往時の面影をとどめた旧家が軒を連ねる。

◆岩村城データ◆
別名「霧ヶ城」といい、それは非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名づけられた。

「霧ヶ井」
 霧ヶ城と言われるもととなった井戸。城主専用の井戸で、お堂の中にあった。敵が城を急襲したとき、この井戸へ城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ちこめ城を覆い隠したという伝説がある。この水は今も絶えることなく湧き出し、昭和62年に岐阜県の名水五十選に認定された。
◆地形「出丸から見る岩村町」
 
岩村城は、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、本丸は海抜717mに位置し、全国の山城の中で最も高地にある。その歴史と広大さと要害堅固さから、高取城(奈良県)・備中松山城(岡山県)とともに近世城郭における日本三大山城の一つである。
歴史■岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)が、文治元年(1185年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(1573年)に岩村城を奪取して入城したが、同3年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森3代、田丸具忠と28年間に目まぐるしく交替した。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平2代、丹羽氏5代のあと大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。

■城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。建物は明治維新により廃城され、後明治6年(1873年)に取り壊された。(城址説明板より)
◆遺構 本丸・東曲輪・二の丸・三の丸・出丸と、石垣・井戸・櫓台・門跡などが残る。また、土岐門が徳祥寺の山門として、不明門と伝わる門が妙法寺山門として移築現存する。

▲本丸跡に立つ城跡碑


▲東曲輪跡から見た本丸跡

▲菱櫓台


▲本丸搦手門(埋門)の石垣
◆再建造物
「山麓の再建造物」
 
山麓部の藩主邸跡に太鼓櫓(左端)、表御門などを平成2年に再建、また岩村藩校知新館の門と建物(右端)が同じ場所に再建されている。
移築現存門

{岩村町市街地案内図}

【六段壁】本丸の北東面に雛壇に築かれた、背面の高石垣の崩落を防ぐ補強の石垣。

岩村城復元絵図
山頂に残る石垣・門跡・曲輪・櫓台

▲本丸埋門
本丸へ入る搦手門は埋門となっている。石垣のなかに一階部分は埋まり、門の上に、これに跨って長い多門があって監視と防衛の役目を果たした。また敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまうことも出来るので、他の門に比べて埋門は堅固であった。埋門の石垣は野面積み、打込ハギ、切込ハギの三種を一度に見ることが出来る。これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは享保3年(1718年)にあった大地震のあと修復したものである。埋門左側の長い石垣は土岐坂の石垣につぐ古いもので、一見粗雑であるが意外と頑丈である。

▲本丸平重門跡

▲本丸跡に残る昇龍の井戸

▼岩村城の見どころのひとつ〜本丸6段の石垣(六段壁)▼

■大手門・三重櫓・畳橋
畳橋は敵が攻めてくると橋板を取ってしまうのでその名がある。大手門は正門のことで、城門の中で最も重要な門であるから、その防衛は厳重を極めている。大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその前面の桝形へ入る平重門である。
桝形も大手櫓門をかばう防御施設である。空堀にのぞんで三重櫓があった。岩村城は山城で天守は不要であるが、この三重櫓が天守の如く偉容を誇っていたのは、城下街から見上げたとき、ここが最も見栄えのする地点であったからである。しかし岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開する。この辺りの石垣は最も美しく絶壁にのぞんだ三日月形の曲線は扇の勾配とも又は武者返しとも呼ばれている。

左上)桝形を構成する大手門跡。
(右上)大手門後方の石畳を奥へ行くと本丸となり、岩村城の本格的要害が展開する。
(左)天守の如く偉容を誇っていた三重櫓跡。右側は空堀跡。

▲土岐門〜土岐殿門ともいう。

山麓の岩村藩主邸跡

■土岐門が徳祥寺(岩村町飯羽間)の山門として、不明門と伝わる門が妙法寺(岩村城下町)山門として移築現存する。

▲土岐門(内側)

▲土岐門(表側)

▲不明門(内側)

▲不明門(表側)

{交通案内}
●公共交通機関の場合
JR恵那駅より明知鉄道にて約30分・岩村駅下車、山麓の太鼓櫓まで徒歩約20分。
本丸まではさらに約20分。

●車の場合
中央自動車道・恵那I・Cより国道257号にて約20分。
駐車場は麓の太鼓櫓が再建されている藩主邸跡と山頂の出丸に有。

(左)再建された太鼓櫓、表御門。太鼓櫓は「時」を知らせる為の櫓。(中)藩主邸跡。左奥の建物は歴史資料館。(右)藩主邸跡に再建された岩村藩校知新館の正門。知新館は元禄15年(1702年)藩主松平乗紀によって創立された。美濃国において最初の藩学であり、全国的に見ても古く十指に入る。知新館の名称は論語の「温故知新」から採った。

▲出丸から望む本丸の高石垣
石垣上は本丸跡。石垣の左端奥は二の丸跡。

▲二の丸跡から望む本丸の高石垣
右奥後方は出丸跡。

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