このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡
河後森(かごもり)城跡
【所在地】愛媛県北宇和郡松野町

     ■新城から望む遺構の環境整備工事が行われた西第十曲輪。建物、土塁、門などが整備・再現。  
      
 西第十曲輪は、城の中心部にあたる本郭から階段状に連続する10番目の曲輪(平坦部)で、西の端の最も低い地点に位置している。そのため、敵の進入を受けやすく、城を守る上で重要な役割を担っていた。保存整備に伴う発掘調査では、このことを示す様々な施設を発見。特に、曲輪の内部では、建物や塀、門などの構築に使用された約700基もの柱穴の跡が見つかっている。また、城を守るために必要となる土塁(防御のための土盛り)や堀切状の施設(西第十曲輪左下の平坦部との間)、曲輪への出入口なども確認している。
建物後方は西曲輪群。
【河後森城跡の概要】
河後森城跡は、県内最大級の中世山城で、四万十川支流の広見川、この広見川の支流の鰯(いわし)川、堀切川の3本の川に囲まれた独立丘陵上にあります。城域は20haを超え、最高所の本郭(ほんかく)を中心に大小様々な形態をした多数の曲輪(平坦地)が「U」字形に広がっています。主に石垣を使って城を築く江戸時代以降の城と比べて、一段階古い中世の城は、土づくりの城といわれるように、もともとの地形をつくっている岩盤を切ったり掘ったり、また土を盛ったりすることによって城としての防御性を高めているところに特徴があります。

戦乱の時代、中世。伊予(現在の愛媛県)と土佐(現在の高知県)の国境に位置する当地域は、黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれ、現在の松野町、鬼北町(一部除く)に及ぶ範囲でした。

 この地域と周辺は、天文後期から永禄期、天正期(1500年代後半頃)にかけて、土佐の一条氏、長宗我部氏とのたび重なる戦闘の舞台となっています。この時、河後森城跡の城主として各種史料に登場するのが、河原渕教忠(かわらぶちのりただ)であり、土佐・一条氏の一族から養子として迎えられたと伝わっています。なお、この期間のおわりには下克上により領主は芝氏となりますが、土佐からの攻撃は一層激しさを増し、長宗我部氏の支配が及ぶに至ります。

 天正13(1585)年、秀吉による四国攻めが行われ、その後宇和郡は順次小早川氏、戸田氏、藤堂氏、富田氏の所領となっていきます。この間、河後森城にはそれぞれ城代が置かれました。さらに慶長19(1614)年には伊達秀宗が10万石を領して宇和島藩が創立されましたが、この時にも付家老であった桑折(こおり)氏が7千石を領して河後森城に居城したといわれています。このように河後森城跡は、予土国境の城として重要な役目を担い、長期間機能していたのです。城の終焉については、一国一城令による元和元年(1615年)頃と推定されます(現地パンフレットを参考)
地形・縄張

(現地説明板より。一部追記)
河後森城跡は自然の地形をたくみに利用した、中世・戦国時代のいわゆる「土づくりの城」。独立丘陵の稜線は馬蹄形(半円形)に展開。
頂上や斜面、谷に遺構や遺物が残る。本郭は、城内で最も高い場所にあり、標高は約171mの山城で、麓にある集落との比高差は約88m。

 城内の登山道や樹木は、見学しやすいように整い、伐採されています。また、各曲輪への案内標識も設置されており、主要な曲輪、堀切、虎口などには解説板が置かれ具体的に知ることができます。※河後森城跡案内マップは「P現在地の河後森城駐車場」に掲示。
河後森城跡周辺図
<河後森城への登城ルート>
JR松丸駅スタート
  駅構内に観光案内所併設。詳細な縄張図掲載の河後森城パンフレット設置。ホーム2階にポッポ温泉あり。
河後森城駐車場(登城口) 20分/1.12km
 上の「河後森城跡案内マップ」のP現在地のところ。
西第十曲輪 28分/1.45km

本郭 34分/1.7km

古城 40分/1.96km

新城 48分/2.25km

東第三曲輪(下山口) 57分/2.55km

JR松丸駅 70分/3.16km
※駅から最短距離で④本郭へ登りたい方は、松丸駅から徒歩約10分の印、河後森城跡石碑の建つ場所から⑦→④の順路で登城してください。なお、写真を撮ったり、調べたりするともっと時間はかかると思います。個人差はありますが、上記ルートで3時間要しました(登城日/2018年2月)

風呂ヶ谷
 南(駐車場側)から見た風呂ヶ谷。この丘陵上の一番高所の本郭を中心に、西(写真左側)に西曲輪群が9、東(右側)に東曲輪群が7と古城群、さらに南(右側手前)に新城の曲輪が馬蹄形に展開。

井戸(風呂ヶ谷の発掘調査で発見)
 西第十曲輪へ登る途中に築かれている。城で生活するためには、井戸は重要であり、深さは現況で約2m。

西第十曲輪への虎口と門(門の右側は西第九曲輪)
 この登り道一帯は、曲輪への出入り口である虎口が検出された地点です。当時はかなりの急傾斜になっており道幅が約2m、そして虎口を登りきったところには、ほぼ同じ大きさの2つの柱穴が発見され、門の柱を立てた跡と考えられます。ここではその門の様子を立体的に再現しています。

 現在、門の両側には植栽を行っていますが、敵の侵入に備えるため土塁(土盛り)や矢来(やらい・木を使った囲い)などの防御施設が続いていたと考えられます。この地点は、右写真の⑦と⑧の場所です。

西第十曲輪
 ①解説板②土塁(半立体表示)③切岸④土塁(完全復元)⑤掘立柱建物の再現⑥掘立柱建物跡の平面表示⑦虎口⑧門⑨堀切状遺構(建物後方の土塁下)⑩新城(削平地の所)

 敵の攻撃から城を守るため、曲輪のまわりには切岸(きりぎし)と呼ぶ人工的な崖をめぐらせ、さらにその上には土盛りの防御施設である土塁が築かれていた。④の土塁は、発掘で判明した盛土の幅2.2mを参考にすると、土塁の高さは約90㎝であったと推定でき、ここではその様子を立体的に再現している。
 ②の地点の土塁の整備は、完全な復元ではなく可能な範囲で行っています。曲輪側の立ち上がりについては、当時のラインを示していますが、高さと幅は本来のものではありません。

西第十曲輪から望む西曲輪群
 ここから一番高所の本郭まで、西第十曲輪~西第ニ曲輪へと曲輪が9つ階段状に続く。
 

曲輪を分断する堀切
 西第ニ曲輪と西第三曲輪の間では、発掘調査で堀切を確認。堀切とは山の岩盤を溝のように掘りぬいた施設のことで、当地点のものは両方の曲輪の間を分断する長さ約17m、幅約1.3mから2.2m、深さ約1.3mから1.8mの大規模な構造となっている。
 なお、堀切を保護するために、整備では盛土による保存工事を行っており、本来の幅と深さは現地では表現されていません。
本郭へ続く虎口の様子
(左)虎口の整備状況(※左の平面図の現在地は、上写真の現在地の所です)
 この地点では、河後森城の本郭への出入口である虎口が検出されていますが、領主の交代等によって改修を受けているため、大きく二つの時期の施設が認められます。
 古い段階は、15世紀(1400年代)から16世紀頃(1500年代)で、本郭との間に人工的に掘りくぼめた堀切がありました。堀切の東の端には、岩盤を掘りぬいて直接柱を埋め込む掘立柱の門があり、この門へと、そして門から本郭に向かって岩盤を削り出した道が形成されていました。

 一方、新しい段階は16世紀末から17世紀初め頃(1600年前後)で、古い段階の堀切を壊して石垣を構築しています。また、石垣の東側にある岩盤を削り出した道上の一部と石垣の西側には、盛土や石段による新たな道が設けられました。
 このように、当地点では岩盤を掘ったり削ったりする古い段階から、石垣を備えた新しい段階へと、城づくりが変化した様子を知ることができます。
(平面図と文は解説板より)

本郭南側斜面に残る石垣
 右上奥は本郭、石垣手前の溝は堀切。堀切の中央より右側は門跡となる。この門跡を少し下ったところに、当時の登城道(下写真)を検出しています。

本郭跡
 他の曲輪(防衛や居住のために造られた平坦地)と同じく、岩盤を円形に掘った多くの柱穴跡を本郭でも検出。これらは、柱を土の中に埋め込む掘立柱を使い、屋根には主に板を葺いた施設の痕跡を示したもので、本郭では、建物跡10棟、門跡1基、土塀跡1基を確認。このうち、現地では、明らかに時期の重複する4棟を除く建物6棟、門と土塀について、柱の位置(黒石で表示)や間仕切りの様子を整備しています。

 なお、この本郭では、多くの瓦も出土しており、曲輪内に礎石(建物の基礎石)が残されていることから、総瓦葺きの建物もあったと考えられます。この建物は、西側の虎口や南側斜面に残る石垣とあわせて河後森城の最終段階にあたる16世紀末から17世紀初め頃(1600年前後)に存在した天守ではないかと推定しています。復元中の建物は主殿舎(城主の住まい)です。

本郭への登城道
 本郭南斜面のこの地点では、城が使用されていた当時の道を検出しています。発掘調査によって確認した道は、全長約16mの範囲であり、山の岩盤を削ることによって平坦面をつくり出したものです。
 幅は約1.2mから2.2mで広狭の差があり、用途不明ながら部分的に柱穴跡も見つかっています。また、急斜面となっているためか、道の表面には、使用の際の足がかりとなるように岩盤が波のように削られた跡が残っていました。
 ここでは、発掘当時の様子がわかるよう、部分的に擬岩を用いた展示を行い、当時の様子を再現しています。
ここから東曲輪群→古城→新城を巡ります。

東曲輪跡
 左手には本郭が位置し、右斜め奥へと東曲輪が展開。その先は古城となる。

堀切
 尾根伝いの敵の侵入をくい止めたり、道や門として使うために堀切という施設をつくった。

 この堀切は、河後森城の東第四曲輪と古城第二曲輪の間に人工的に設けられたもので、上端の幅約7m、下端の幅約4m、深さが約3mの城内最大規模となります。発掘調査の結果、堀底には新旧6段階に及ぶ掘立柱の門の跡が見つかり、道として利用されていたことがわかりました。

 この堀切は、長期間にわたって存在しており、また城の内と外を分けるような位置にあることから、大手や搦手といった城の最も重要な出入口(虎口)として機能していたと考えられます。ここでは古い段階と新しい段階の2つの門の跡を整備しています。
▼新段階の堀切の様子(解説板に一部追記)

 古い段階は、道幅がせまくの位置に門が築かれていた。一方、新しい段階は、上図の門で、道幅が最も広がり、門を構成する柱穴も巨大で、その間隔も約3.6mとなっており、大型で内開きの棟門であったと考えられます。
 堀底のほぼ中央に位置していますが、進行方向に対して斜交する位置に変化しており、外からの進入者が簡単に直線的に入ってこられないよう防御上の工夫がなされています。

古城第二曲輪(手前)と古城(一段高い平坦部)

古城で検出された石打棚の跡
 この地点で、古城の北西部を防御するための石打棚(塀庇)の跡を発見。曲輪(平坦部)の縁に沿って、約1~1.5mの間隔で柱の列が並び、その列の後方にも同じ数の柱の列が並ぶことがわかりました。このことから、外側の柱列は土塀の柱で、内側の柱列は土塀を支える控え柱であると考えられます。

新城の切岸
 各曲輪上は平地となっており、その斜面は切岸と呼ばれる急傾斜の地形を形成している。

新城東側の堀切

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