このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
鹿児島(鶴丸)城 | ||||
県民交流センター6F展望回廊から望む鹿児島(鶴丸)城跡 現在は、本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には県立図書館・市立美術館などが建つ。標高107mの城山の麓に築かれた | |
鹿児島(鶴丸)城模型(黎明館展示) 江戸時代末期の鹿児島城の復元模型。杮葺き、書院造りの建物が並ぶ本丸御殿の景観。藩主 の居館は、三方を堀と石垣で囲み、前面には | |
別角度から見た城模型(フラッシュ撮影は禁止) 居館の正面中央、枡形の入口にあった御楼門は、「屋形づくり」であった鶴丸城のシンボルであり、高さ約18m、幅約20mの堂々たる建物でしたが、明治6年(1873年)火災により焼失。礎石に残る痕跡から、主柱は幅3尺(約90㎝)もあったとされています。 | 明治初期の鹿児島城(城内説明板より) 御角櫓と大手門にあたたる2層、入母屋造りの御楼門。 |
擬宝珠の欄干橋を渡り御楼門を入ると本丸御殿が建ち並んでいた。御楼門は鹿児島城の東側に開いていた大手門 | |
歴史と文化の道 城の南北の通りから欄干橋、御楼門跡を望む。 | |
水堀に架かる石橋と御楼門跡 水堀は城の3方を取り巻いていた。橋は当初は木橋であったが、1810年(文化7)に石橋に掛け替えられた。 | 御楼門跡の門柱礎石 御楼門から本丸までの間は左折れの枡形である。 |
本丸の枡形虎口 御楼門の内側を直角に折り曲げた内枡形を造っている。周囲の石垣は「切り込みはぎ」という手法で積み上げ、隅の部分は「算木積」の工法が用いられている。左に曲がった所の状況が右の写真。 | 唐御門跡 建物は、本丸跡に建つ鹿児島県歴史資料センター黎明館。 |
御楼門跡の石垣に残る西南戦争の銃弾跡 | 御角櫓跡 御角櫓は、本丸の南角にあった櫓門で、表御門とも呼ばれた。 |
御角櫓跡の石垣 御角櫓は、一段高い石垣上に建っていた。手前の低い石垣から南側は二の丸跡。水堀の後方(北側)は、御楼門前の石橋。 | 二の丸跡 二の丸跡内に建つ県立図書館。二の丸というのは、本丸に対する一般的な呼び方で、藩主の世子や隠居の居宅などがあった。 |
鬼門避けの入隅(いりすみ) 本丸多門櫓跡(県民交流センター側)の石垣隅は、角を切り取った形になっています。これは城の北東に当たる「鬼門」とみなし、その災厄を除こうとしたと考えられ、「隅欠(すみおとし)」と呼ばれている。左奥は、御楼門跡と石橋。 | 御楼門完成イメージ(現地案内板より) 鹿児島県では、「御楼門」「御角櫓」「城壁」を建設するため、平成32年3月の完成に向け、取り組みを進めている。 |
城山展望台から望む桜島・錦江湾・鹿児島市街 | |
城山展望台 標高107mの小高い山の上にある。 | 城山展望台から眺めた鹿児島城跡と錦江湾、桜島 図書館、美術館の位置する所が二の丸跡。本丸は写真に写っていませんが左側部分となる。●のところに左下写真、西郷隆盛銅像が立つ。 |
西郷隆盛銅像 城山の麓、鹿児島城二の丸跡にある市立美術館の一角に立つ。 | 西郷洞窟 西南戦争の最末期に総攻撃を受けた西郷隆盛が、私学校の幹部とともに銃弾に倒れるまでの最後の5日間を過ごした洞窟。 |
私学校跡 西郷隆盛が設立した学校。 | 弾痕跡 私学校跡の南側石垣に残る西南戦争での銃撃戦の弾痕跡。 |
仙巖園(せんがんえん)から見た桜島 仙厳園は第19代島津光久によって万治元年(1658年)に造られました。歴代当主の別邸として機能し、雄大な桜島を借景とする庭園や錫門、御殿、望嶽楼などが大名家の暮らしを今に伝えています。 | ■鹿児島(鶴丸)城跡 鹿児島中央駅からカゴシマシティビュー(市内巡回観光バス・一回乗車/大人190円)で薩摩義士碑前下車すぐ。 ●城内は散策自由、無料 ●鹿児島県歴史資料センター黎明館~入館料=一般310円、 開館時間=午前9時~午後6時、休館日=月曜日 ■仙巖園 鹿児島中央駅から、カゴシマシティビューで30分、仙巖園前下車すぐ。 ●入園料=1,000円(仙厳園・尚古集成館) 無休 2017年(平成29年)11月現在 ■地域別訪問城に戻る |
城データ | 所在地 | 鹿児島県鹿児島市城山町 |
築城年 | 1602年(慶長7) | |
築城者 | 島津 | |
別 名 | ||
遺 構 | 石垣・堀 | |
形 状 | ||
文化財指定区分 | 県指定史跡 城山は国史跡 | |
概 略 | — 77万石の本拠は天守閣をもたない屋形づくり — 鶴が翼を広げた形をしていることから鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれていました。1601年(慶長6)、関が原合戦の後、島津家18代家久が上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘の「ここは海に近すぎて危ない」という反対を押し切って着工します。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのです。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、1606年(慶長11)城の前の橋が完成したとされています 城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城(とじょう)がめぐらされていました。 城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上(かん)町6町、下(した)町12町、そして西田町4町が設けられ、5,000人余りの町人が集められましたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、1873年(明治6)炎上。残されたのは城壁と擬宝珠(ぎぼし)つきの石橋だけとなりました。 (現地説明板より) |
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