このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
備中櫓(復元)を望む
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。往時には5層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実践的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、栗積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。その後、明治33年(1900)城郭は鶴山(かくざん)公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。(城内説明板より)
津山さくらまつり | |
<津山城跡に桜を植えた人〜福井純一> 鶴山公園は、岡山県内で唯一、「全国桜名所百選」に選ばれている桜の名所である。この桜の植樹に尽力したのが、福井純一である。純一は、明治11年(1878年)、津山市本町2丁目に生まれる。津山成器小学校から同志社中学校に進むが、父が病で倒れたため、中退して帰郷する。町会議員から市制とともに市会議員、昭和7年、第3代目の津山市議会議長に就任する。 明治32年(1899年)、県有地だった津山城跡は、公園にするという条件で津山町に払い下げられた。明治33年(1900年)から津山町が公園化に手をつけ、純一も桜植樹の中心的な役割を担うことになる。「城跡を桜で埋めるなんて、阿保の沙汰じゃ」と揶揄されながらも、私財を投じるとともに寄付集めに奔走する。 明治40年(1907年)ころには、公園としての様相が一応整い、その後、大正4年(1915年)と昭和3年(1928年)に御大典記念植樹が行われた。津山城跡が桜で覆われるようになったのはこのころからである。純一は、昭和32年(1957年)、生涯の大半を津山城跡の桜にかけた80年の生涯を終えた。 <鶴山公園案内図> アクセス〜JR津山駅から徒歩約15分 入場/有料 | |
津山観光センター | 観光センターのわきから鶴山公園に上がる石段 |
三の丸石垣 | 冠木門へ至る この先、冠木門跡手前には、津山城説明板、切符売場等が設置されている。 |
切符売場・観光案内所 | 冠木門跡(表門出入口) |
冠木門跡周辺の石垣 | 冠木門跡から三の丸への石段 |
三の丸から眺めた本丸にそびえる備中櫓 | |
三の丸から見た表中門跡 表中門跡の石段を上がると、二の丸跡となる。 | 表中門跡で行われているさくらまつりイベントの踊り |
表中門跡と備中櫓 本丸への石垣は、「扇の勾配」で優美にそびえ立ち、防御にすぐれた「一二三段(ひふみだん)」石垣の縄張である。石垣上は二の丸跡。 | |
切手門跡 切手門を通り抜けると、二の丸から本丸入口である表鉄門へと続く。 | |
本丸石垣上に立つ備中櫓 | |
表鉄門跡 本丸への出入口。 | 本丸跡と備中櫓 |
本丸東側の石垣 | 太鼓櫓跡 |
月見櫓跡 | 栗積櫓跡 本丸の北東側にあり、城の北側を守る櫓。 |
天守閣跡 この台上にかつては5層の天守がそびえていた。 | 備中櫓 本丸から南に張り出した石垣上に建てられた櫓であり、城下からの景観も含め、城内で天守に次ぐ建造物であったと推定される。平成17年(2005)復元。 |
裏鉄門跡(本丸出入口) | 裏中門跡 |
裏下門跡から裏中門跡へ至る途中の石垣 | 二の丸(西側)石垣 おかやまに関する日本100選に戻る |
森忠政公像〜天正10年(1582)織田信長に従って京都本能寺で討死した蘭丸、坊丸、力丸の3兄弟は忠政の実兄である
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