このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

上赤坂城
所在地大阪府南河内郡千早赤阪村桐山
別名楠木本城・桐山城・小根田城
地形種類自然の険しい地形を利用した中世山城
築城者下赤坂城の戦いの後、楠木正成が千早城とともに築いた
遺構曲輪・堀切
文化財指定区分国史跡(昭和9年・指定)

※上赤坂城へは、「歴史の丘公園」から奉建塔、給食センターを目指して行きます。城跡への看板も設置されています。
「歴史の丘公園」内には、楠公誕生地、郷土資料館、道の駅「ちはやあかさか」、くすのきホールなどがあり、また近くには楠公産湯の井戸もあります。

(現地案内看板より転載)

●元弘2年(1332)秋の楠木正成の第二次挙兵は、千早城とともに上赤坂城に籠城して戦われましたが、鎌倉幕府軍に包囲されて翌年2月に上赤坂城が落城、千早城だけが耐えてついに守り抜きました。建武政権の崩壊、正成の死後、貞和3年(1347)子の正行を中心に南軍が東条谷に集結して北進、翌年正月、四条畷の戦いで正行が敗死、弟正儀が赤坂に退いて1年6か月間、高師泰らの北軍と対峙しました。この時が赤坂城塞群整備のピークであったと思われます。正平14年(1359)、赤坂一帯が再び攻防の拠点となり、翌年5月上赤坂城が落城しました。

守り手は最後の詰めとなる金剛山頂との連絡を軸に城塞の網をはりめぐらし、攻め手はそれと競合しつつ向城の網をはって、上赤坂城に攻撃を集中する、というのが戦術の基本で、正成の挙兵時以来この形を踏襲して城塞群が発達しました。この城は立地上、金剛山麓の城塞群の中枢という面だけではなく、東条谷一帯の地域支配の拠点として典型的な国人居城の特徴を有していますので、南軍の拠点という歴史的背景がなくなって以後も使われたと思われます。

▽郷土資料館にて撮影

(現地案内看板より転載)

◆現地案内看板に一部加筆



『大手口より』
一の木戸→二の木戸→三の木戸→そろばん橋
四の木戸→二の丸(東の城)→茶碗原を経て
                     『本丸に至る』

●上赤坂城は、金剛山の支脈の一つで、西北にのびる標高349.5mの峰にあります。楠木正成(1294〜1336)によって築城されたといわれている。

三方を深い谷に囲まれ、南一方のみが山づたいに金剛山へと続いています。北側の城の谷から登る城坂(じょんざか)が大手口で、二の丸(東の城)の西側を通り、茶碗原を経て坂を登ると本丸に出ます。

城郭は本丸と二の丸の二つの郭を核に、それぞれ大手方面の尾根に段下りに連郭しています。

*赤坂城塞群は、上赤坂城を中心に点在する山城群
◆上赤坂城址遠望
上赤坂城跡巡り
■上記掲載の城跡地図、現在地から大手口、一の木戸を眺める。 現在地には、車が数台駐車できます。 坂道を登ったところが、一の木戸です。
■一の木戸と城解説板 右の∨字に掘られたような道が登城道です。
■二の木戸 一の木戸から約五〇メートル。 木戸とは城門の意味。
■三の木戸 一の木戸から約二五〇メートル。 この木戸を超えると二の丸(東の城)の曲輪が見えてきます。これから先、「そろばん橋」、「四の木戸」を経て「茶碗原」に至ります。
■そろばん橋 そろばん橋は、二重堀切で土橋状になっていますが、もとは土橋がなかったのかもしれません。 後方は、四の木戸です。
■四の木戸から見るそろばん橋
■そろばん橋の堀切
■茶碗原跡 茶碗原は陣屋跡で、炊事場のあったところといわれ、石臼や土器が出土しています。 茶碗原からも谷に向って曲輪を重ねていますが、密柑園として開墾されたこともあり、今は不明瞭になっています。 坂道を登ると本丸です。
■茶碗原から本丸を望む
■上赤坂城本丸からの眺め
■上赤坂城跡から出土の採集遺物 (郷土資料館にて撮影)
■現在、上赤坂城一帯で発掘調査が行われている。

上赤坂城(かみあかさかじょう)は、下赤坂城(しもあかさかじょう)と千早城と並んで「太平記」に登場する山城。

尚、金剛山一帯の尾根上に設けられた曲輪群を一つの城としてとらえると、下赤坂城が出丸、上赤坂城が本丸、千早城が詰城にあたる。

■地域別訪問城に戻る

「参考資料」
社団法人「千早赤阪楠公史跡保存会」冊子。現地説明板。

■本丸跡の城跡碑

【2008年2月訪問】

「上赤坂城周辺図(現地案内看板より)」


■四の木戸を過ぎて、しばらくすると、突き当たりのようになっており、左に行くと二の丸(東の城)、右へ行くと茶碗原を経て本丸に行きます。

▼本丸跡に建つ城碑

■「城坂(じょんざか)」 本丸に至るまでの道は「城坂」と呼ばれており、4つの木戸が設けられていたといわれています。
■突き当たりから、少し登った所の、老樹におおわれた二の丸跡(東の城跡)。
■本丸は平坦な台地で千畳敷とも呼ばれ、東・西・北の展望が開け、六甲山や淡路島まで見渡すことができ、点在する出城との連絡が簡単に取れたようです。

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