このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 か な や ま
金山城

▼大手虎口の大手通路と門跡
実城へ向かうための通路を厳重に守っていた防御拠点。大手通路の突き当たりが正面土塁、正面土塁の後方には日ノ池が位置する。大手通路の左方向が二ノ丸、三ノ丸となり、右手は南曲輪となる。

桟道
山の斜面に丸太で組んだ通路があったと思われる。

■所要時間 駐車場⇒物見台まで約10分⇒大手虎口まで約15分⇒本丸跡まで約20分。
■現況 史跡整備事業が進み、大手虎口の石垣、日ノ池、月ノ池、石垣、土橋などが復元されている。
また、各所に説明板も設置されています。

駐車場から少し東に上がった所にある金山城跡碑。ここからスタートです。

所在地群馬県太田市金山町
地形種類標高235,8mの金山山頂(実城)を中心に築かれた山城。山全体が要塞化している。
城の構成は、実城(みじょう)・西城(にしじょう)・北城(きたじょう)、八王子山ノ砦からなる。
築城年文明元年(1469)
築城者岩松家純[いわまついえずみ]
文化財指定区分国指定史跡
天守天守閣をもつ城が造られるのは金山城より100年くらい後からなので、金山城には天守閣はなかったと考えられる。
特徴●金山城の発掘調査では、石垣や石敷きなどが見つかり、石を使った山城であることが分かり、それまでは「関東の中世の山城に石垣は無い」と考えられていた。
●また、山頂部(実城域)に日ノ池・月ノ池という2つの大きな池があることも、非常に珍しい金山城の特徴です。

■「石敷き遺構展示施設」内のカマド
建物の東脇から見つかり、建物から火気を遠ざけていたと思われる。このことから、建物は火薬などを備蓄した「武器庫」を兼ねた「兵の詰め所」だったと考えられています。

物見台下堀切
左側下は岩盤を人工的に削って造った堀切になっている。

▼日ノ池(ひのいけ)
 日ノ池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や石敷、2箇所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷の下からは、日ノ池へ通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。これらの調査の結果をもとに、往時の姿を可能な限り再現しています。石垣や石敷はできる限り当時のままで残しました。
 日ノ池は、山の上では稀な大池であり、金山城における象徴的な場所の一つです。ここは、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。

■大手虎口(おおてこぐち)
 
金山城跡にある虎口なかでもこの大手虎口は、一大防御拠点として、また「城の格」を示す象徴的な場所として、最も重要な虎口と言えます。大手虎口は谷地形を利用して築かれ、月ノ池脇から正面土塁までの大規模な「構え」となっていました。月ノ池脇の門から続く緩やかに曲げた大手通路、それを守るため見下ろすように両側に配した壇状の曲輪とそこを守り場とした兵達の各種建物、大手通路の行く手をふさぐように築かれた正面土塁、横矢を射るために築かれた壇状の土塁などがありました。このような大規模で複雑な虎口の構造は、全国的にも特徴的であり、「難攻不落」を誇った金山城を象徴する場所の一つと言える。
 また、通路脇や曲輪内を走る石組み水路は、城の維持のために効果的に排水を行う往時の工夫であったと考えられる(文と絵図は現地説明板より転載)

左上の柵列に囲まれた馬場曲輪のすぐ脇(東側)に掘られた大堀切と下方の月ノ池

馬場曲輪(ばばくるわ)
 
物見台から、東に向う通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。
馬場曲輪の調査では、岩盤を剃り貫いた柱穴が240個以上見つかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。また、建物は少なくとも5回の建て替え、曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に造り替えを行っていたことも明らかになりました。
 廃城時期の馬場曲輪における、建物3棟のうち両側の2棟は平面表示としました。また、中央の1棟は柱穴の位置を利用して、新たに四阿(あずまや)を建てました。そのほか、曲輪の中央部分に石組み排水路、曲輪全体を囲む柵列の存在も明らかとなり、あわせて整備しました。
(文と絵図は、現地説明板より。一部加筆の上、掲載)

馬場下曲輪(ばばしたくるわ)
馬場下通路の南下に立地する馬場下曲輪は、発掘調査の結果、岩盤を剃り貫いた建物の柱穴が見つかりました。また、竪堀に沿って石垣でできた土塁が延びていることがわかりました。現在整備した土塁は、石垣が崩れた状態を表現しています。

馬場通路・石塁
 物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見された。この石塁は、北の長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられている。さらに、長手口から、北側の岩盤を険しく見せるための視覚的効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし、調査では上部の崩落が著しく、塀の痕跡は発見されなかった。

物見台下虎口
上から見た写真。土橋の両側は堀切。

物見台下虎口と土橋
通路の正面に石積みがあり、その先を見せないような工夫がされている。

物見台下虎口・竪堀

◆金山城の歴史◆
 今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下克上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉謙信、武田勝頼、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜きましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。
 しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の北条氏征伐により金山城は廃城となった。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。
 昭和9年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面影は失われていましたが、調査の結果、大規模かつ複雑な虎口形態を持っていたことや、さらに、曲輪斜面の石垣、石敷通路や土塁石垣など、随所に石を多用している山城であったことが明らかとなってきました。往時(中世)における関東の山城としては、きわめてめずらしい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。

▼南曲輪から望む八王子山ノ峠(左側が大八王子山)と、後方は太田市の市街地(太田市役所・太田駅方面)

■石敷きされた建物の基礎
整備では、石敷きされた基礎の一部が見学できるように、「遺構展示施設」として建物を造った。

▼正面土塁手前から見た大手通路と、その先の大手虎口の門付近。大手通路の両側の平らな部分は曲輪跡です。

※矢倉台に残る4本の柱穴位置に遺構表示施設を造っているが、物見矢倉を復元したものではありません。

●虎口・・・城や曲輪への出入り口のこと。
●竪堀・・・斜面からの敵の侵入を防ぐために掘られた防御施設。

【説明板に一部加筆の上、掲載】 物見台下土橋から竪堀までの間には石敷きの通路が発見された。この通路は防御上、土橋から見通せないように曲がった通路となっている。通路は、竪堀にかかる木橋方向と、堀底へ下りる階段へ分岐している。

▼大手虎口南上段曲輪(おおてこぐちみなみじょうだんくるわ)

▼土塁石垣

<現地案内板に一部加筆の上、掲載>

⇔御台所曲輪の「桜」です
西矢倉台西堀切・桟道・西矢倉台下堀切
竪堀 木橋から竪堀の谷底を見る。
馬場下通路の礎石建物址 岩盤斜面際の礎石石列は、発掘調査で確認された実物。 (柱間の木材は、補強のため整備上取り付けたもの)
馬場曲輪 西側から見た馬場曲輪の柵列と建物は四阿(あずまや)。 右奥後方は大手虎口になります。
馬場曲輪は、大手虎口を守る兵が待機していたと思われる曲輪。
月ノ池 調査の結果、月ノ池も日ノ池と同様に上下二段の石垣で囲まれた戦国時代の池だったことが明らかになった。 城の中心部への入口脇にあり、訪れる者に水の豊富さを見せつける。
実城(みじょう) この石段を登りきった所が実城(本丸址)。 金山城の中枢で、城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。
天主曲輪(本丸址) 本城最高位の郭で、戦前、本丸と言われたところである。 角矢倉形式の大建造物があった。この郭は、金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。 廃城後は、新田義貞を祀る新田祠と言う小さな石宮があった。
天主曲輪(本丸)裏馬場跡 馬場と言うが、実際は、馬屋のある郭である。 馬は山城でも伝令用として使われたもので、馬屋の必要があるが、音に敏感な動物のため、敵の攻撃にさらされないよう、城郭でも静かな裏側に設けられた。

甦りつつある石の山城

【金山城周辺図】
車の場合、東武伊勢崎線太田駅北口より、金山モータープール(西城駐車場)まで約10分です。

※物見台から東の南側斜面際では、石敷きされた通路が発見された。この通路は、物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐している(文と絵図は現地案内板より転載、一部加筆)

本丸残存石垣 金山城は、全域を石垣で築かれた関東地方では珍しい城である。 石垣用材は、金山石が手近にあるので使用したものであるが、大きな石は、柱状節理の山麓の根石を山頂、山腹まで持ち上げた大工事である。 積み方は、「野面積(のづらづみ)」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名、「ゴボウ積」とも言われる。

【復元整備された大手虎口】

▼物見台から、芝桜が満開の太田市北部運動公園を望む。

※日ノ池、向う側の土塁石垣後方下が大手虎口。屋根だけが見える建物は、石敷き遺構展示施設。左上の曲輪は南曲輪。右上に僅かに見える石垣のある所は三ノ丸。

新田神社のある実城(本丸跡)

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大手虎口・三ノ丸・ニノ丸・日ノ池・南曲輪
大堀切・月ノ池
馬場通路、石塁・馬場下通路・馬場下曲輪
※虎口は、城や城内の各曲輪への出入口を指し、「小口」とも書かれます。 敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に守られています。
竪堀 竪堀の脇には石垣があり、堀底には通路があった。
馬場下通路 通路の先を行き止まりにし、敵を惑わせる。
大堀切 敵兵が尾根づたいに進攻してくるのを防ぐために造られた堀切は、山城にとって一般的な防御施設で、とくにこの大堀切は、全山城のなかでも最も主要な防御施設である。大手虎口の目前にあるため、長さ約四十六m、堀幅約十五m、深さ約十五mと大規模に造られている。
日ノ池 南曲輪から、日ノ池越しに御台所曲輪跡、実城(本城)跡方向を望む。
武者走跡

 史跡
“金山城跡”
  散策

西矢倉台西堀切
西城から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いている。

※堀切とは、山の尾根筋を意図的に分断し、敵の侵攻を防ぐための施設。山城では土塁と共に基本的な防御施設である。

西矢倉台下堀切
西矢倉台の西下に造られた防御施設で、西城から実城(本丸)へ向う間の二番目の「堀切」となる。
断面の形は、上部が逆「ハ」の字であるのに対して、下部は箱状「∪」に掘られ、簡単に攻め登れないように工夫されている。

物見台(現地説明板より)
物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されている。

「左上」馬場曲輪の四阿と手前は復元された排水路。
「右上」四阿の脇にある建物平面表示。
「左」整備された排水路と柵列。後方は物見台方向になります。

物見台・物見台下堀切
馬場曲輪

■関東地方の中世戦国期城郭では、土手のように土で築く土塁がほとんどですが、金山城の土塁は石垣で造られているのが特徴的です。

人の歩いている所が大手通路で、右の突き当りが正面土塁です。
後方の上、柵部分は三ノ丸

■三ノ丸から壇状に伸びた土塁石垣は、大手通路までせまっている。手前の石敷きされた通路が大手通路。

 この土塁石垣では、調査の結果、5回にわたる改修の跡が見つかったため、石垣の一部は6回の構造の変遷を示す遺構としてそのままの姿で残している。右側の長方形をした石垣内下に展示されている。

■「石垣改修の露出展示」
 5回も石垣の改修工事を行っている跡が見られます

■大手虎口南上段曲輪からは、石敷きされた建物の基礎やカマド、井戸跡が見つかりました。大手虎口を守った兵たちの、生活のにおいが感じられる曲輪です。

 建物は「石敷き遺構展示施設」で、内部には、石敷きされた当時のままの建物の基礎を展示しています。

■石垣改修の露出展示場所から見た、「石敷き遺構展示施設」と井戸跡。

柵とノボリのある左右の通路は大手通路。
最上段(南曲輪)にある建物はトイレと休憩所(写真に半分写っている建物)

実城(本丸址)

※散策は、下の城跡絵図の復元整備された部分で、実城域から実城へとたどります。西城・北城・八王子山ノ砦は未訪問です。

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