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金 沢 城
(石川県金沢市)

[沿 革]
 室町時代、ここには石山本願寺の支院金沢御坊があり、加賀一向一揆の本拠となっていた。1580年(天正8年)、織田信長の命により柴田勝家・佐久間盛政の総攻撃で金沢御坊は陥落。御坊跡地は、佐久間盛政によって土塁や掘などが改築された。

 1583年(天正11年)、賤ヶ岳合戦で盛政が敗北したあとは、前田利家が秀吉軍とともに入封して、近世城郭へと改修。3代利常の時、120万石にふさわしい城に拡張されたが、天守は竣工まもなく落雷で焼失。以後、天守は再建されなかった。その後、1869年(明治2年)の版籍奉還まで14代にわたって前田家の居城となる。

 現在、多くの建物は失われているが、本丸・二の丸・石垣・門跡・堀などが残る。建造物として残る石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫は国重要文化財。
 再建造物は、2001年(平成13年)、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓復元。2010年(平成22年)、河北門・いもり堀復元。2015年(平成27年)、橋爪門復元。平山城。
     
国史跡・日本100名城 <訪問日=2015年4月再訪問>
(写真は、前田利家像と石川門)

重要文化財(建造物)
復元建造物
橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)・五十間長屋(ごじっけんながや)・菱櫓(ひしやぐら)
 橋爪門続櫓と菱櫓は3層の物見櫓。五十間長屋は、橋爪門と菱櫓を結ぶ2層の多聞櫓で、普段は倉庫として用いられるが、非常時は戦闘のための砦となり、石落としを各所に備え、格子窓は鉄砲狭間となる。

▲橋爪門と橋爪門続櫓〜橋爪門は、高麗門形式の「一の門(中央の建物)」及び石垣と二重塀で囲まれた「枡形」と櫓門形式の「二の門(写真下)」からなる枡形門。二の丸の正門として、最も格式の高い門であった。続櫓は、橋爪門枡形に付属する3層の物見櫓。三の丸で戦闘が起きたときの指揮所。

▲菱櫓〜二の丸で一番高い3層の物見櫓。この付近の石垣は、平成10年から12年にかけ、菱櫓等の復元に伴って一旦解体された後、「粗加工石積み」に積み直しが行われた。右の奥側は「切石積み」となっている。


▲枡形から見た橋爪門二の門〜枡形は城内最大の規模を誇る。右は橋爪門続櫓。二の門をくぐると二の丸広場。

▲五十間長屋内部〜日本に古くから伝わる木造軸組みの工法。柱・梁を組み合わせ、小屋を架ける。


▲河北門(かほくもん)〜一の門は、脇土塀を海鼠壁仕上げとし、ニラミ櫓台は、出し(出窓)付の土塀構造に復元。河北門は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門。現存する石川門と橋爪門と共に「金沢城三御門」と呼ばれている。


▲河北門の「二の門(櫓門形式)」〜両側の石垣は、地元産出の戸室石を隙間なく積み上げる「切込接」

※河北門の構成〜一の門、二の門、ニラミ櫓台及び枡形土塀により構成された枡形の空間で築かれている。石川門も同様の構成。

▲切手門(きってもん)〜旧位置に再移築、現存。

▲いもり堀と鯉喉(りこう)櫓台〜金沢城復元整備計画に基づき往時の姿が甦ったいもり堀と鯉喉櫓台。いもり堀は金沢城の南西側を囲む外堀。南東端には鯉喉櫓台があった。後方は本丸跡。

▼新丸広場から望む河北門(左側)と菱櫓(右側)


金沢城の石垣

▲大手門(尾坂門)跡
 高山右近の指導により、西丁口(現在の黒門口)にあった大手を尾坂口に移したと伝える。大きな櫓台石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料はなく、屋根付きの門(棟門)が設けられていた。

▲大手門(尾坂門)石垣
 巨大な割石を使った石垣。巨石は「鏡石」と呼ばれ、一般には城の正面によく用いられた。金沢城の石垣の中で最大の石もこのなかに組み込まれている。尾坂門が大手門だったことを示す一つの証拠と見られている。


▲黒門(西丁口門)跡

▲土橋門跡
 北の丸と三の丸をつなぐ土橋に面して設けられたことから「土橋門」といわれていた。桝形門に造られており、重厚な櫓門があった。


▲土橋門石垣
 土橋門の土台になっていたこの石垣は、「切石積み」の技法が用いられており、石垣に組み込まれた六角形の石(亀甲石)は、水に親しむ亀を表したもので、防火の願いが込められた。文化年間の大火でも、この石のおかげで土門橋の焼失が免れたとも伝えられている。


▲裏口門跡の石垣

▲二の丸北面石垣
 この付近の石垣は、形や大きさをそろえた粗加工石が積まれています。「粗加工石積み」の中でも、最も完成されたものといわれており、加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は、「城内でも指折りの石垣」とほめたたえた。


▲戌亥(いぬい)櫓石垣
 石垣上に2層の戌亥櫓が建っていた。本丸の北西角、戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。

▲本丸
 古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、天正14年(1586)頃に天守閣を設けたといわれる。天守閣は慶長7年(1602)に焼失し、代わって3階櫓が建てられた。寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。


▲本丸石垣
 鶴丸倉庫の前(西側)に位置する。

▲鉄門(くろがねもん)
 創建は明らかではが、寛永の大火(1631)以降、二の丸から本丸に入る正門となった。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いたといわれている。渡櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。


▲鉄門石垣
 「切石(きりいし)積み」の技法は、城の重要な部分に用いられ、本丸への入口となるここ鉄門の石垣にも、「切石積み」が見られる。石の表面を多角形に加工したすぐれたデザインで、丁寧なつくりになっている。
東の丸北面石垣
 文禄元年(1592)、利家は、急ごしらえの平山城であった金沢城の石垣改修に着手。この石垣は、城内で最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なもの。

 自然石や粗割りしただけの石を緩い勾配で積み上げた「自然石積み」になっている。

▲東の丸東面の石垣
 背後に見える東の丸の石垣は、金沢城で本格的な石垣造りが始まった文禄元年(1592)に造られた城内最古の高石垣。最上段の6m分は小段をつけて積み上げているものの、石垣の総高は21mに達し、文禄期の石垣としては日本有数の規模を誇る自然石積み石垣。


▲本丸南面の高石垣
 自然面を残す粗割石(あらわりいし)を積みあげた割石積み石垣。明治時代に上部が取り壊されて現状の姿になったが、もとの高さは約12間(約22m)以上ある城内随一の高石垣であった。
 兼六園〜水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園のひとつに数えられ、林泉回遊式大庭園で国の特別名勝である。もと金沢城に付属した外園で、第5代藩主前田綱紀の時代に作庭がはじまり、以後、約170年もの歳月をかけて完成された。

徽軫(ことじ)灯籠〜霞ヶ池のほとりにたつ兼六園の象徴。二股に分かれた足が琴柱(ことじ)を思わせることからその名がある。


噴水〜霞ヶ池を水源としており自然の水圧であがっている。日本最古といわれている噴水。

成巽閣(せいそんかく)の玄関〜大唐破風が前田家の格式を表す。成巽閣は江戸時代末期、文久3年(1863)に前田家13代斉泰(なりやす)が母堂にあたる12代奥方、真龍院のために造営した奥方御殿。

辰巳用水〜寛永9年(1632)金沢城の堀の水や防水用水としてここから約11km先の犀川上流から引かれた。工事の設計施工は小松の町人、板屋兵四朗である。

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■石川門

左より石川櫓(二重櫓)、高麗門、渡り櫓
 石垣は三ノ丸東面となり、文化年間(1803〜16)加賀藩穴太(あのう)の後藤彦三郎、小十郎親子の手で全面的な修築がおこなわれた。「堀縁の石垣は粗く積む」のが作法であると考えた二人は、本来なら石垣勾配にあわせて石を置くべきところを、意図的にずらして荒々しい表情の石垣に積み直したようです。「場にふさわしい石垣づくり」が当時の技術者のこだわりであった。 
 加賀百万石・前田家の居城である金沢城のシンボル石川門は、城の背面である搦手口を守る門。鉛瓦や海鼠塀が貼られた石川門は、金沢城独自の偉容を誇る。門前には蓮池堀(百間堀)と呼ぶ水堀(現在は、道路と公園。左写真)が築かれ、兼六園と分断している。

 石川門の内側は、枡形と呼ぶ方形区画をつくり、外側(石川橋側)に高麗門、右折して櫓門を渡り櫓としてあげ、高麗門と土橋の監視のため、二重櫓をあげている。慶長年間(1596〜1615年)の創建と伝え、その後、改修が加えられ、現在の門は1788年(天明8年)の再建。

▲石川橋から望む石川門
 左側は2層2階の二重櫓、中央は高麗門、右側は渡り櫓(櫓門)。

▲「一の門」の高麗門
 高麗門をくぐると、違う積み方をした石垣が眼前に。右が二の門(櫓門)となる。

▲「二の門」の櫓門(渡り櫓)と門扉

▲「石川門」枡形内の石垣
 枡形内の石垣は左と右で技法が異なり、左側が「粗加工石積み」、右側が「切石積み」で、ひとつづきの建物で違う積み方をしている。1765年(明和2年)の改修時の姿をとどめ、石垣上には多聞櫓をめぐらせる。
 ■三十間長屋
 金沢城本丸は、西と東北に付壇と呼ぶ小区画をつくり、東を東の丸と呼び、西側の付壇には三十間長屋が残る。三十間長屋は、2層2階の多聞櫓で、1858年(安政5年)に再建。倉庫として使われた。下層の外壁は、方形の平瓦を張りつなげ、目を漆喰で盛りあげた海鼠壁が特徴である。内部には、武器・武具が格納されていたと伝わる。
 三十間長屋の石垣の積み方は「切石積み」の技法で積まれているが、表面の縁取りだけをきれいにそろえ、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。
     

三十間長屋西側
 中央に大千鳥破風、左右に唐破風の出窓をもつ。
 ■鶴丸倉庫

本丸、東の丸付壇に残る武具土蔵
 江戸時代前期は2棟並列してあったが、宝暦の大火(1759年)の後は1棟となり、幕末の1848年(嘉永元年)、現在のものに建て替えられた。明治以降は、陸軍によって被服庫として使われた。土蔵造り総2階建て、切妻造、桟瓦葺。

金沢城公園〜明治期には兵部省、昭和期には金沢大学が置かれ、現在は金沢城公園として整備されている。JR金沢駅からバスで約15分。

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