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かんむりやま
冠山城 岡山市下足守
■1577年(天正5)以降、織田信長は中国地方へ羽柴秀吉を進出させた。
当時、備中の城主たちは、ほとんど毛利方に属し、宮路山城・冠山城・備中高松城・加茂城・日幡城・松島城・庭瀬城の「境目七城」を強化して対抗していた。
冠山城は、その「境目七城」の一つ。
■冠山合戦を偲ぶ(城址最上段に立つ説明板より転載)
天正10年(1582)4月17日冠山城は、織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。守りは城主林三郎左衛門、祢屋七朗兵衛など3百騎、総勢3千6百人で、羽柴秀吉の旗本杉原七朗左衛門、宇喜多秀家らと戦った。城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。4月25日不幸にして城内より出火し、火は燃え広がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監など将兵139人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた。加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。
小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は行年51才、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いをも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。武士道に徹した冠山の城主及び将兵を心から称えたい。
昭和58年11月吉日 冠山城址四百年記念事業奉賛会
▼冠山城登城口
樹木の生い茂った所が城址です。
▼周辺城址地図
▼冠山城址全景
冠山城の現況
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