このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

かんなべじょう
神辺城

《広島県福山市神辺町大字川北》

【歴史】(城跡説明案内板より前文転載)
 神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2(1335)年築城したと伝えられています。以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。戦国時代には杉原理與・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。

 元和5(1619)年の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に280数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。

■JR福塩線・神辺駅正面に聳える神辺城跡

●神辺城跡へは、国道313号線をJR福塩線・神辺駅に向って、神辺高校前の左写真のところから左折し、吉野山公園・歴史民族資料館を目指して行きます。歴史民族資料館前に駐車場があります。

現在、城跡公園として整備され、曲輪跡や空堀跡が残る。また、城門が福山市実相寺へ移設されている。

周辺の見どころとして、神辺本陣・廉塾などがある。

■豊田池から望む 神辺小学校後方の神辺城跡

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▼歴史民族資料館と、右の写真は資料館の内部。

【堀切跡】に架かる橋。この道を行くと本丸跡。

【曲輪跡】

【本丸跡】

【城跡からの眺め】

【神辺城・移築現存門】

■神辺城周辺図<神辺駅前の案内看板より>

■神辺城想像図<城跡案内掲示板より>

▼上記「神辺城想像図」の現在地の様子。手前に民族資料館が位置し、車の奥部分が右の写真になります。本丸へは、堀切跡に架かる橋を渡り、ここから約5分。

【堀切跡】

移築先〜実相寺
      福山市北吉津町5−5

〜廉塾と神辺本陣〜


廉塾(れんじゅく)は1781年頃に菅茶山(かんちゃざん)が開いた塾。菅茶山(1748〜1827)は宿場町神辺の東本陣(酒造業)に生まれ、京都で朱子学を学び神辺に塾を開き、全国から学生が集まりました。また、漢詩人で、困窮時に備えて米麦を蓄えておく朱子社倉法を実践した社会事業家。当初「黄葉夕陽村舎」と呼ばれた塾は後に「神辺学問所」とも「廉塾」とも呼ばれた。

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