このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


【加納城概略】


 徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を加納城主として10万石を与え、また亀姫(かめひめ)の粧田とし2千石を給した。

 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築した。本丸、二之丸、三之丸、厩(うまや)曲輪、南曲輪(大薮曲輪)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭であった。

 本丸は東に出っ張りを持つ、凸の字形をしています。これは出枡形(外枡形)という防御施設を、本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川系城郭に見られる特徴で、加納城はその初現にあたることから、「加納城型」ともいわれています。

 加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えた。明治2年加納城第16代城主、永井肥前尚服(なおこと)が版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至った。加納城跡は、この本丸ほかは二之丸北側の石垣をわずかに残している。
(文は現地説明板・現地資料より。以下同じ。)

     
 加納城は、徳川家康が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また、石垣などは関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。

 初代城主の奥平信昌以降代々の城主は譜代大名が勤めました。明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では、本丸の石垣と土塁、二之丸や三之丸の北側石垣や、三之丸北東部分に当時を偲ぶことができます。

 昭和58年(1983)に本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行われ、江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁が埋もれているのが確認されました。また、本丸の堀の底には「堀障子(ほりしょうじ)」と呼ばれる畝状の仕切りがあったことも分かりました。

▼加納城復元想像図(現地説明板より)

 加納城は岐阜市街地の南部、戦国時代の館の跡地に築かれた平城。東・西は荒田川、北は清水川に囲まれ、さらに西には長刀堀(なぎなたぼり)を掘り、四方を川と堀で囲まれた、水に浮かぶ城を造り上げた。なお、金華山麓の岐阜公園にある岐阜市歴史博物館に加納城の資料や城全域の復元模型などが展示されている。

▼加納城下町地図

 城下町は加納城の北から西にかけて造られました。街の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11年(1634)には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになりました。岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもありました。町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷がありました。

 美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦年代(1760年頃)、当時の藩主永井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。明治以降も加納の伝統産業として受け継がれてきています。

{交通}JR岐阜駅から徒歩約15分。

【加納城周辺と遺構】


町の所々に立つ中山道・加納宿の道標

大手門跡
加納城は真ん中の道を奥へ真っ直ぐ行った突き当たりになる。


左側は、三之丸跡に建つ加納小学校、右側一帯は厩曲輪跡。突き当たりが加納城跡。

加納城三之丸跡石碑
加納小学校正門を入った右手に建つ。


加納城本丸北門
この門手前を左に行くと二之丸跡となる。

二之丸跡に建つ岐阜地方気象台
かつてはここに、城主が暮らす二之丸御殿があった。右は加納小学校のグランドで、二之丸と三之丸の境となり、堀があった。


二之丸北側の現存する石垣
この場所(平地・小学校グランド)は二之丸と三之丸を隔てる堀にあたり、幅は23〜4mもあり、隣の荒田川から水を引いていた。


荒田川
城北橋からの眺めで、川の右側の平坦地も二之丸跡となる。

二之丸北側の現存石垣
この石垣は二之丸東北隅櫓のもので、岐阜城の天守(三階櫓)が移築されていたが、享保13年(1728)の大火で焼失した。なお、二之丸跡からは、平成12年度の発掘調査で、二之丸御殿の一部と見られる礎石が発見されている。


本丸北側の石垣
北門に向って左側(東)部分の石垣。石垣の前は、当時は堀であった。


堀跡から見た本丸北側石垣と北門
本丸北側の石垣
 岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられている。石は、角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められている。
 
 この石垣は、「野面積(のづらづみ)」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めている。これほど良好に近世初頭の石垣が残存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構である。

本丸西北隅の天守台跡


本丸西側の石垣

本丸の南門
かつての水堀から見た南門。


正面から見た本丸の南門

本丸東南角の石垣
加納城の見所の一つである野面(のづら)積みの石垣。

外桝形の石垣
 手前の石垣は、本丸南側石垣。奥後方の石垣が、「外桝形」の石垣。

 「外桝形」は、東側凸字形に出っ張った構えとなっており、この場所に、本来の本丸の出入り口である大手口があった。

 「外桝形」は、徳川氏が初期に造った城の特徴といわれる形である。

外桝形の石垣上からの眺め
本丸東面石垣と堀跡(平坦部)。後方は大薮曲輪跡。

「外桝形」内部
ここから発掘調査によって、大手口門の石垣や櫓門の柱を支えた礎石が発見された。

         

本丸内から見た土塁

土塁の上部
左側は本丸内、右側は堀跡。


土塁上から見た本丸内


本丸内の様子

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