このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■唐津城周辺(二の丸・三の丸)を訪ねる
 
唐津藩初代藩主寺沢広高が築城した時、松浦川の河口を満島山(まんとうざん・現唐津城一帯)東側につけ替えた。

①三の丸辰巳櫓
 この櫓は唐津城三の丸の東南隅に建てられた、見張りや防御のための矢倉です。江戸時代初期、正保年間の「正保絵図」に描かれており、築城当時から築かれていたことがわかります。明治の廃藩後解体されていましたが、平成3年度に石垣を修復したうえで平成4年度に新築復元されました。


②城内橋から望む唐津城
 ここはおすすめの撮影ポイントです。橋を渡ったところが船入門公園。

③船入門公園
 唐津城の船入門は、藩主の参勤交代の際の出入、御蔵への納入物品の出入に利用されました。現在は、当時の船入部分は埋め立てられており、一部川沿いに西側角台の石垣が見られますが、東側や奥の石垣面は埋め立てや道路となり、確認できません。船入門は唐津湾の湾口に築城された唐津城の遺構名称を残す数少ない場所の一つであり、この地の名称を残し船入門公園として整備しました。


④時の太鼓
 この「時の太鼓櫓」は、唐津城址整備計画の一環として、唐津藩絵図に基づき、再現したものです。櫓の中には、からくり仕掛け時計が設置されており、午前7時から午後7時までの毎正時、太鼓の音とともに中から武士人形と大太鼓がせり出し、武士が大太鼓を打ちならし、当時がしのばれる「時」を告げます。

⑤二ノ門堀
 この堀は二ノ門堀とかニノ門外堀と呼ばれ、唐津城の二ノ丸と三ノ丸を区画する大事な堀でした。堀の東側(堀の右側)中程には、二ノ門と呼ばれる門が藩士の出入りを見守っていました。
 三ノ丸(堀の左側)に住む藩士は、この堀を渡り藩庁へ出仕していました。
 この堀の西側には時の太鼓とか撞鐘堂(つきかねどう)と呼ばれる時計台があり、二ノ門外堀の北東側(堀の後方)には海に向かって北ノ門と呼ばれる門が開いていました。


⑥石垣の道
 唐津城の麓(エレベーター乗降場所西側)より西へ延び、北城内五間馬場まで続く1.2Kmの道。

■本丸・二ノ曲輪を訪ねる
  
正面登り口から上段広場(本丸)まで231段の石段が続く。
なお、上段広場(本丸)まで、エレベーターも運行している。


石段
 正面登り口から櫓門に至る途中の石段。


復興の櫓門
 櫓門をくぐると上段広場(本丸)。

二の曲輪から眺める櫓門(右)と天守(左)


二の曲輪跡と本丸井戸
 
現在、この場所は、石垣再築整備事業のため立入禁止になっていました。 


上段広場(本丸)
 
城跡碑の右奥が亀頭櫓跡

本丸を囲む石垣

 
日本三大松原の一つ「虹の松原」と唐津湾
 唐津城の天守から一望される虹の松原は、寺沢広高が築いた防風・防砂林で、かつては「二里の松原」と称された。


西の浜側から見た天守(右端)と復興櫓
 
 

唐津城周り散歩道
 唐津城の麓を巡る散歩道。右側は唐津湾。


直接、唐津湾にそびえる石垣

郷土博物館(天守閣内)展示品
  
(左)大太鼓。唐津城にあったもので、直径85cm、胴長93㎝。(中)大釜。豊太閤の名護屋陣中で将兵の炊事用として用いたと伝えられる。(右)名護屋城鬼瓦。名古屋城解体の時、他の資材とともに移築された。

  
桐文様軒瓦。亀頭櫓付近から出土。          唐津城周辺図 

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唐津城

所在地佐賀県唐津市東城内
別名東の浜と西の浜を両翼に見立て舞鶴城とも呼ばれる
地形種類玄界灘を望む半島上の小高い丘陵に位置する平山城
天守現況 周囲約1キロ、面積4.3ヘクタール、海抜43メートルの現在の唐津城にそびえる天守は、天守台跡に慶長様式で、文化観光施設として昭和41年(1966)10月に完成.。
 ※天守台があり、天守閣はなかったが、シンボルとして建設された。
 天守閣は、5層5階、地下1階で、郷土博物館、展望所等があり、展望所からは松浦潟の全景が一望におさめられる。
遺構石垣・堀 
再建造物模擬天守・復興櫓・門・石垣 
訪問日 平成26年(2014年)11月。
 現在、「唐津城石垣再築整備事業」を平成20年度から9年間かけて大修復を実施中。

【歴史】
 ■唐津城は、豊臣秀吉の側近、唐津藩初代の「寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)」が、慶長7年(1602年)から築城を始め同13年(1608年)に完成したとされていますが、それ以前の豊臣期に築城されたという説もあります。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたといわれます。城は、本丸・二の丸・三の丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、三の丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行所がおかれていました。
 ■寺沢氏は、信長・秀吉・家康と3人の天下人に仕えることにより、着実に出世街道を歩みつづけ、ついには一城の主の座を手中にした。寺沢氏以後は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城しました。寺沢氏の12万3千石ではじまり、小笠原氏6万石の時代に明治維新を迎え、唐津城は、廃藩置県により明治4年(1871)に廃城となりました。明治10年(1877)に唐津城址公園となり、昭和31年(1956)に舞鶴海浜公園となりました。藩主の住居は高校敷地となっています。

【天守が聳える唐津城「本丸・二の曲輪」を望む】
 満島山の頂部を削平・造成することにより、本丸・二の曲輪が造られた。本丸は、当時満島と陸続きであった満島山を人工川により切り離したものである。

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