このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 上越市埋蔵文化財センター前の上杉謙信公像から望む春日山城跡
 写真右上の山頂部が上杉謙信の居城・春日山城「御実城」跡。本丸や井戸曲輪、毘沙門堂などの曲輪が置かれていた。以前、この辺りは樹木に覆われていたが、近年、伐採によって整備され、城跡がはっきり望めるようになった。
■築城年代=正平年間(1346〜70)頃、天正年間(1573〜92)頃
築城者=初期の築城者は不明。長尾為景とその子長尾景虎(上杉謙信)、景勝の3代で現在見られるような城郭に整備されたと伝わる
地形種類=春日山(標高180m)に築かれた巨大山城
■所在地 新潟県上越市中屋敷、大豆
■交通 えちごトキめき鉄道「直江津駅」からバスで約20分。又は「春日山駅」から徒歩。※訪問時(2015年4月)、宿泊したホテルのレンタサイクルを借りて登城。また直江津駅近くにレンタサイクル店有
■史跡区分ほか 国指定史跡 日本百名城
■主な遺構 本丸・二の丸・三の丸・井戸曲輪・毘沙門堂・景勝屋敷・直江屋敷などの曲輪、土塁、空堀、総構(監物堀)
■上杉家家紋
  
 上杉笹(竹に飛雀)
■歴史 上杉謙信の居城としてあまりにも有名な春日山城は、規模の雄大さでも全国屈指の名城といわれています。春日山城は、越後府中の要害(砦)として築かれました。築城の時期はよくわかっていませんが、永正10(1513)年の古文書に初見されることから、少なくともこの時期には山城として機能していたことがうかがえます。ただし、現在見られるような広大な城郭に整備されるのは、謙信・景勝、さらに堀氏が城主を務めた16世紀後半と考えられます。
 この城の特徴は、なによりも山城であるだけでなく、屋敷や空堀が展開する山の裾野に、延長約1.2Kmに及ぶ堀と土塁で総構が築かれていることです。中世から近世へかけての築城法の移り変わりを一つの城跡で探ることのできる遺例として、全国的にもめずらしい大変貴重な史跡です。平成8年、総構の一部を整備し、「史跡広場」として公開しています。ここでは、土塁・堀の復元をはじめ、番小屋を再現するなど戦国時代の春日山城を体感できる歴史空間となっています。また、併設された「ものがたり館」では、上杉謙信の人となりや、春日山城跡の様子をビデオや展示品によって学習できるようになっています。
 慶長3(1598)年、景勝に替わって春日山城主として入封した堀氏が、同12年に新たに築いた福島城に移りました。ここに中世越後のシンボル、春日山城は、その役割に終止符を打ったのです(現地説明板より) ※写真は春日山城中腹にある上杉謙信公銅像と本丸跡
■春日山城史跡広場〜春日山城の持つ大きな特徴の一つが、山城の東裾野に約1.2Kmに及ぶ監物堀(けんもつぼり)と呼ばれる総構の外堀が築かれていることです。山城だけ築くのではなく、裾野に水掘りを持つ貴重な遺構です。なお、城主堀氏時代に築かれた監物堀の名の由来は、この堀を作った家老の堀監物直政によるものといわれる。

監物堀と土塁
 発掘調査で確認できた土塁や堀などの一部を、1996年(平成8)に復元。土塁の上に柵列を配し、周辺は史跡公園として、中世の春日山城を偲ぶことができるように整備。

史跡広場内から見た土塁
 後方の樹木で覆われた一帯は東城砦(とうじょうとりで)、右の建物は、映像で謙信公の生涯と春日山城のなりたちについて学ぶことができる「ものがたり館」。


東城砦に復元された番小屋
 東城砦は、春日山城を防備するために築かれた北東端の出城のひとつ。

東城砦から見た監物堀と土塁
 左より、ものがたり館、監物堀、土塁、史跡広場の一部。監物堀後方は、90度に曲げられており、これは横矢をかけるため防御しやすいように造られたもの。 
■林泉寺惣門と頸城(くびき)平野

(写真左)林泉寺惣門〜春日山城の搦手門を移築したものと伝える。
(写真上)春日山から頸城平野を望む
春日山城
 春日山城跡めぐり
 
平成版・春日山城絵図(現地説明板より)
 
 登城は、大手道入口より→大手道→番所→南三の丸→柿崎和泉守屋敷→上杉景勝屋敷→井戸曲輪→本丸天守台跡→護摩(ごま)堂跡を巡り、ここから下りのコースとなる直江屋敷→千貫門(せんがんもん)→三の丸→二の丸を巡ります。


大手道入口〜この道は、江戸時代に描かれた春日山城の古絵図に大手道と記載されていたことから、当時の人々もここを春日山城の正面玄関と考えていたことがわかる。


復元された大手道〜城の東側裾野から本丸へ至る大手道。

番所〜大手道の中程、本丸を初めて目前にする地点にあって「番所跡」と伝えられている。標柱のある小山は木戸が造られていた土塁の跡で、門があったと考えられる。

南三の丸〜「ジョウ(城)の畑」と呼ばれ、古くから城内と意識されてきた。土塁や堀で区画された郭が連なり、春日山城の最も重要な屋敷が集まっていたと考えられる。


柿崎和泉守屋敷跡〜上杉謙信の重臣柿崎景家の屋敷跡と伝えられる春日山城で最も大きな郭の一つ。

上杉景勝(かげかつ)屋敷跡〜「御館(おたて)の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した景勝公の屋敷跡と伝えられている。景勝公は謙信公の姉仙洞院の子で、直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の一人までになった。


御成(おなり)街道〜時の関白近衛前嗣が通ったことから御成街道と呼ばれている。

井戸曲輪〜廃城後400年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸。城の古絵図にもここだけが井戸があることを示しており、古くから注目されていたことが分かる。


天守閣跡〜本丸の南隣に位置し、天守と呼ぶべき壮大な建物は存在しなかった。


守閣側から見た本丸〜標高180mに位置する本丸跡。天守閣跡とともに春日山城の「お天上」と呼ばれたところ。

本丸跡〜本丸は、手狭で居住には適していない。物見台状の建物が存在したと思われる。

護摩堂側から見た本丸曲輪〜天守閣跡・本丸跡一帯は一段と高くなっている。春日山城は「土の城」であり、石垣は存在しない。


護摩堂跡〜謙信公が出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られているが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの護摩堂である。


諏訪堂跡(手前)と毘沙門堂跡〜
上杉勢の「毘」の旗印は、謙信が毘沙門天に深く帰依したことによる。
 
ここからは直江屋敷→千貫門(せんがんもん)→二の丸→三の丸を巡ります。


御花畑跡〜毘沙門堂と直江屋敷の間にある薬草園。

直江屋敷跡〜上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられており、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が造られている。直江家は上杉謙信の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信公の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られている。景勝が会津へ国替えになった時に同行し、米沢藩30万石の城主になったことでもその活躍が偲ばれる。


虎口

空堀〜ここは通称搦手、あるいは附内口で、春日山神社の郭をへて謙信の銅像の裏から登る道がここに通じています。それをたち切るのがこの空堀で、平素は橋がかかっている。


千貫門〜春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門である。それは、この門が古くから知られていたことを物語っている。今でも門が建っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。

上から見た千貫門跡〜三方が土塁と土手に囲まれ、右に2本(写真には写っていませんが)、一見、道と思われる切り通しがある。実は、これは空堀の底で、侵入者を空堀から急嵯な崖下に落とそうとしたものであると考えられる。周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な地点であったことをうかがわせる。


(上)帯郭〜山城によく見られるもので、郭のまわりにある斜面の中程を水平な帯状に削り出した平坦面をいう。

(左)千貫門内側の空堀
〜千貫門の内側に連続する2本の堀が造られており、門の位置からは道のように見える。空堀は通常尾根を分断するように造られるが、ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われる。

本丸から望む二の丸跡〜本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成している。

二の丸跡〜右上の最上段の郭は本丸跡。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている。古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもある。

▼三の丸跡

 謙信公の養子「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」などを総称して「三の丸屋敷」と呼ぶ。三郎景虎公は、小田原の北条氏康の七男であり上杉氏と北条氏の同盟締結の際に謙信公の養子となった武将。謙信公が自らの名を与えるなど破格の待遇を受けていたが、謙信公の死後跡目を争った「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。


米蔵と土塁〜「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所として考えられており、春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁は、この三の丸の防衛の役割を果たしていた。当時はこのような土塁が各郭に築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像される。


三郎景虎屋敷跡

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