このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
▲一の郭城壁。城壁は、石灰岩の石垣をめぐらせている。石垣の勾配は垂直に近く、反りもないのは沖縄の城の特色の一つ。
▲四の郭から望む勝連城
四の郭(手前の平坦部。現在、駐車場)から三の郭へは、「⊃字型」石垣に沿った坂道(石段)を登った所が三の郭。城の縄張は五つの郭で構成されており、、三の郭から上に二の郭、一の郭と階段状に高くなり、一の郭が最高所となる。
世界遺産 勝連城を巡る |
麓から見る勝連城跡
道路を登りきった所が四の郭跡。
左端の城壁部分が三の郭門跡。
右側の最高所部分は一の郭跡。
【国史跡・世界遺産】
勝連城跡は、1972年(昭和47年)5月に国指定史跡となり、2000年(平成12年)12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産登録が決定した。
【所在地】沖縄県うるま市 沖縄本島の中部、太平洋に突出た勝連半島の根元に位置する高さ約100mの丘陵上に築かれている 【築城年】12〜13世紀頃に築かれた勝連按司の城 【築城者】不明(伝承では茂知附按司) 【遺構】石垣、郭、井戸 |
「歴 史」 ■伝承では、英祖(えいそ)王統第二代大成王(在位1300〜08年)の五男が初代勝連按司となり、以後英祖系がつづく。6代めは現在の石川の伊波按司の子、7〜8代は地元の浜川按司、9代めは茂知附按司(もちづきあじ)、10代めが最後の阿麻和利按司(あまわりあじ)。茂知附・阿麻和利時代には海外交易で栄え、勝連城の全盛期を築く。城跡からは中国の陶磁器片など、多数の交易品が出土した。 ■阿麻和利は知謀で按司(在地領主)の座に就いたといい、首里王府もその威勢を恐れ、尚泰久(しょうたいきゅう)王は娘の百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利の嫁にして懐柔を謀る。王婿となった阿麻和利は王位を奪い取ることをねらい、首里の守りとなっていた中城護佐丸按司を謀略をもって討つたが、やがて王軍に攻め込まれて滅びた(1458年)。 |
【四の郭〜三の郭跡】
【勝連城跡碑】
四の郭跡に立つ城碑。周辺は駐車場
【勝連城所在地図】
▲一の郭跡
▲一の郭門跡から見下ろす眺め
▲一の郭への石段と石段上は門跡。この門はアーチ門であった。琉球のグスクは、拱門(石造アーチ式の門)を城門として用いていることに本土の近世城郭と異なる。
【 一の郭 】
▲三の郭から二の郭、一の郭を望む
写真手前の平坦部が三の郭跡になり、右は四脚門跡。二の郭は3ヶ所に設けられた石段を上がった所。後方の城壁が一の郭となる。
【三の郭〜二の郭】
四の郭より望む三の郭跡
なだらかな石段を登りつめたところが、三の郭門跡(四脚門跡)。
四脚門跡(しきゃくもんあと)
三の郭へ入る門で、発掘調査の結果、木の門であったことがわかった。城外側。
かつれんぐすく
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