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川越城
所在地埼玉県川越市郭町
別名初雁城(はつかりじょう)
地形種類平城
築城年1457年(長禄1)
築城者太田道真・道灌父子

太田家家紋「太田桔梗」
文化財指定区分県指定史跡
主な遺構本丸御殿、家老詰所、富士見櫓台跡など

■家老詰所
 市内光西寺所有の「川越城本丸御殿平面図」によると、この建物は、現在地より約90メートル西側に建てられていたことがわかる。
 建坪は54坪・木造平屋で寄棟造り、桟瓦葺の屋根で外観は質素である。室内は、正面に床の間・床脇を備えた10畳を奥とし、8畳・8畳の3室を中心に構成されている。
 川越城主松平大和守斉典の時代の建造物である。

■家老 用部屋
 光西寺に残されている絵図には「御老中」と書かれている部屋。10畳敷で、床の間と床脇を備えている。
 川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名であった為に、藩主は、年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。床の間を背にした3体の人形を使って、家老たちが藩政を論じる場面を再現している。

■家老詰所
 1872年(明治5)に民間に払い下げられたものを、1988年(昭和63)に移築復元した。
 左側には本丸御殿が位置する。藩政にたずさわった家老の居所が残っているのは、全国でもめずらしい。

■三芳野神社
 本丸御殿の東、天神曲輪に鎮座する。童謡「とおりゃんせ」の発祥の神社と伝えられる。
 1624年(寛永1)、藩主酒井忠勝が川越城の守護社として造営した。
もとは城内にあり、庶民の参詣が許されたのは年一度の大祭の日だけ。城内警備の武士のあいだを、緊張しながら参詣する庶民の様子を童謡に歌ったものといわれる。

■川越城の七不思議の一つ<初雁の杉>
 川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木があった。いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。
 そのため、川越城は別名「初雁城」ともいわれている。

【川越城の歴史】
■川越城は、関東官領の扇谷上杉持朝(もちとも)が長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城させたものである。当時、持朝は古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返しており、築城はこれに備えたものであった。築城当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。
■小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落とした。天文15年(1546)、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は、それまで対立していた山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城奪回を図るが奇襲にあい大敗する(川越夜戦)。その後、後北条氏は川越城を足がかりとして北武蔵への支配を固めていった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて落城した。同年8月徳川家康は江戸に入城する。川越城には江戸の北を守る重要拠点として酒井氏が配置され、その後も幕府の要職にある大名が藩主に任じられた。
■寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱(まつだいらのぶつな)は川越城の本格的な拡張・整備を行う。川越城は、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、4つの櫓、13の門からなり、総面積が9万8千坪(約326、000㎡)余りの規模をもつ城郭となった。
■川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典(なりつね)が造営したもので、当初16棟、1,025坪(約3,388㎡)規模を誇っていた。現在は玄関・広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみであるが、日本国内でも御殿建築が現存する例は極めて少なく貴重である。

川越市役所前の太田道灌銅像

■霧吹の井戸〜昔、川越城の片隅に、霧吹の井戸と呼ばれる井戸があり、いつもは井戸にふたがしてあり、敵が攻めてきて城が一大事という時にこのふたをとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったという。川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城」とも呼ばれた。<川越城の七不思議の一つ>

■本丸御殿内の装飾〜現在、本丸御殿には11面の杉戸絵が残り、松・竹林・蘆雁などが描かれている嘉永元年(1848)に造営された本丸御殿は、武家住宅としての書院造りの建物。
 その建物内の装飾の中心となるのが、障塀画で、障塀画には、壁面に直接描かれる壁画や襖障子に描かれる障子絵・杉戸絵などが含まれる。杉戸絵は、板地に絵が直接描かれたもので、建物の出入口や広縁を仕切ることなどに使用された。

■本丸御殿に展示の駕籠(乗物)。このおかごは、市内行伝寺の僧侶が川越城に登城するおりに使用していたと伝えられている。江戸時代には、将軍・大名・公家・僧侶などが乗るものを「乗物」とよんでいた。

■富士見櫓跡
 本丸御殿の南西にある、内堀を掘った土で築いた櫓台。天守のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりとなっていたと考えられている。その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
 元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応2年(1866)に川越城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ約15m、横約14mあったと記されている。

<本川越駅前の観光案内図板に一部加筆の上、掲載>

■本丸御殿玄関をあがった所の廊下
大広間など6室の周囲にめぐらされている板敷きの廊下。

櫛形塀[くしがたべい]
御殿玄関の両脇に配された塀。屋根は瓦葺、櫛形の窓には格子がはめ込まれている。
【左上】玄関正面左側の櫛形塀。
【右上】玄関正面右側の櫛形塀。
櫛形塀は、正面左側(左上の写真)だけに残っていたが、1968年(昭和43)の御殿修理の際に右側のこの櫛形塀が復元された。
【左】横からみた櫛形塀

■二の丸跡に建つ市立博物館
道路の反対側は本丸。博物館敷地内には、右写真の霧吹の井戸がある。

■川越城本丸門跡の石碑
右奥は、初雁公園野球場。

■川越城本丸門跡
石碑が建っている所。後方の建物は博物館。

【左上】札の辻交差点。南(川越駅方面)から北へ向う南北の道路。右(東)に行くと川越市役所。川越市役所前(大手門)から西にのびる通りと南北の通りとが交差する札の辻[ふだのつじ]を中心に、江戸時代、城下町の整備が進められた。札の辻には、藩のお触れを掲示する高札場が設けられた。
【右上】川越市役所前の川越城大手門跡の石碑。この道をさらに東に行った所が三の丸、二の丸、本丸です。
【左】川越市役所前の太田道灌銅像。

  小江戸川越 城下町の歴史散歩
幕府の要職にある大名が、藩主に任じられた川越藩が十七万石という最大の石高を有した時代に築かれた殿舎。
「蔵造りの町並み」 仲町交差点から北方向の札の辻まで、幸町の八〇〇メートルばかりの通りの両側に、重厚な土蔵造りの店蔵が立ち並ぶ。 川越の土蔵造りの店舗は、いわゆる「蔵造り」として有名。 蔵造りは類焼を防ぐ為の巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したものです。 一番街の通りに面して建ち並ぶ蔵造りの町並みは、今の東京では見ることができない江戸の面影をとどめています。
川越城主酒井忠勝が寛永年間(一六二四〜四四)に創建したと伝えられ、以来、城下町に時を知らせてきた。 現在のものは四代目といわれ、一八九三年(明治二六)の大火で焼失した翌年の再建。 櫓の高さは奈良の大仏と同で、今も一日四回、市民に時を知らせている鐘の音は、平成八年環境庁(現環境省)主催の「残したい日本の音風景百選」に選ばれた。
「川越夜戦跡」 天文六年(一五三七)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河公方足利晴氏と連合して総勢八万余騎をもって、同十四年十月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひきいる城兵は、わずか三千でたてこもっていたが、翌十五年春にはすでに兵糧も尽きて非常な苦戦におちいっていたところ、北条氏綱が八千騎をひきいて援軍としてかけつけ、四月二十日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打つて出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に向って敗走をはじめ、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。
喜多院 江戸城内の家光誕生の間や、春日局化粧の間が喜多院の書院、客殿として移築されている。

■博物館側から見た本丸。本丸に建つ写真中央、道路奥の本丸御殿(分かりにくいですが、樹木に覆われた黒っぽい部分)。
 道路の両サイドは駐車場となっており、道路左側には、初雁公園野球場、市民プール、三芳野神社、道路右側には本丸御殿、川越高校などが位置している。


本丸御殿・家老詰所

■田曲輪門跡
 富士見櫓のすぐ前(南西)にある門跡。

■南大手門跡
 田曲輪門跡から、西へ約100mの所にある川越第一小学校の正門を入ってすぐ右に石碑が建っている。

※本丸御殿に掲載の川越城図に、現在の建物と曲輪名を記入

■本丸御殿
本丸御殿の玄関は銅板葺の大唐破風屋根ををそなえ、内部には広間など6部屋が残る。



御殿内部の見学は、 一般一〇〇円で、午前九時から午後五時(但し入館は午後四時三十分まで)まで。 休館日は月曜日(休日の場合は翌日の火曜日)、年末年始、館内整理日となっています。
本丸御殿 玄関 二の丸にあった藩主の御殿が火災で焼失し、一八四八年(嘉永一)、藩主松平斉典が空き地だった本丸に御殿を再建した。 壮麗な大唐破風、霜除けのついた玄関は往時のままで、近世御殿建築として貴重な遺構。 玄関の両脇には灰白色の櫛形塀が連なっている。

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