このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 岸和田城

 大阪府岸和田市岸城町

●岸和田城二の丸に隣接して建つ岸和田だんじり会館(府道204号線沿い)
だんじり祭りの魅力を一堂に集めた博物館

▼本丸内側▼

▼ 本丸周囲を巡る ▼

「城絵図は城跡掲示板より転載・加筆」

【江戸時代の岸和田城絵図】
岸和田藩は5万3千石であったが、城の規模は30万石級の大藩の城に匹敵するほどの豪壮さであった。現在残る遺構は、本丸・二の丸の石垣と堀が現存する。二の丸は公園となっており、本丸には、赤字で示されている天守・隅櫓・櫓門が復興されている。

府史跡<1943(昭和18)年指定>岸和田市街の中央に位置する平城

■本丸に再建された櫓門と櫓門後方の天守、及び右角の多聞櫓・隅櫓。

「別称」千亀利(ちきり)城 「遺構」石垣・堀の一部

「岸和田城周辺図・岸和田城アクセス」
 南海本線蛸地蔵駅下車徒歩10分、または岸和田駅下車徒歩15分

■櫓門をくぐったところの様子

■復興された多聞櫓・隅櫓〜左に櫓門と後方は天守。

▼ 二の丸 ▼

■岸和田城本丸を望む 本丸跡に再建された天守(左端)・櫓門(中央)・隅櫓(右端)

■現存する近世の遺構〜本丸石垣と堀
当時は、今の天守より約10m高い32.4mの天守が聳えていた。石垣下の犬走りも良く確認できる。

■土橋を渡り、櫓門をくぐり本丸内部へと至る。岸和田城は千亀利城(ちきりじょう)ともよばれる

■隅櫓・多聞櫓と犬走り

■犬走り

■地域別訪問城に戻る

【岸和田城の変遷】
■岸和田城がいつ、誰が建てたのか定かではないが、建武元年(1334年)頃、楠正成の一族和田高家が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれている。戦国時代末期(16世紀中頃)には、当時泉州地方を治めた松浦氏の居城として現れる。
■織田信長の家臣津田信張・蜂屋頼隆がしばらく在城した後、羽柴秀吉は天下統一の過程で紀州の根来寺などの勢力への押さえとして、子飼いの家臣である中村一氏を城主とし、根来寺壊滅後は秀吉の叔父にあたる小出秀政を城主として、城や城下町の整備にあたらせた。天守は秀政によって築かれ、慶長2年(1597年)に完成。
■豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏2代を経て、寛永17年(1640年)、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治める。江戸時代の岸和田城は、大坂の南の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たした。
■この間、文政10年(1827年)、落雷によって5層の天守は焼失し、以後長らく再建されなかったが、昭和29年(1954年)、鉄筋コンクリート造りで3層の天守が再建され、また昭和44年(1969年)に城壁・城門・隅櫓が再建された。
■堀端からみる櫓門と隅櫓
■二の丸跡の公園 城風の建物は心技館。道を挟んで右に本丸が位置します。 二の丸には普段藩主が居住した二の丸御殿が建てられ、西北角には伏見城から移築した伏見櫓が建っていた。
■百間堀と二の丸石垣 室町・戦国時代ころまでは、今の二の丸は海に突き出た小高い丘で、近くまで潮が差し入っていた。もとは今の二の丸が本丸であった。中央の建物は消防署です。
■三層の模擬天守と小天守 現在の天守は昭和二九年に図書館として建設された。天守の高さは石垣の高さ約五m、石垣上端から鯱を含めた高さ約二二mです。
■八陣(はちじん)の庭と多聞櫓・隅櫓 八陣の庭は、室町以前の城郭平面図をもとに地取りし、所々に諸葛孔明の八陣法をテーマに大将を中心に天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配したもの。和歌山県沖の島産の緑泥片岩を用いた石組を京都白川産の白砂で囲み、これに砂紋を描いて海中の蓬莱を表現し、それ以前の庭園にはなかった上空からの俯瞰をも意識した設計となっている。
城とだんじり祭りに象徴される歴史の街 岸和田
■本丸東側からみた天守と小天守 石垣の色が違うのは、大雨のため石垣が崩れ、修復のためによるものです。 崩れた石垣の裏側から百数十基の墓石がみつかり、他城でも墓石や石仏などを使った例は少なくありませんが、戦に備えてできるだけ早く築城工事を終えるために、手っ取り早く大量の石材を集められる墓石は好都合だったようです。
■岸和田高校側からみる本丸に建つ天守 現在の天守は三層ですが、幕府に提出した城郭普請絵図に描かれている天守が、すべて五層であることから、岸和田城天守は、本来は五層の天守であった。

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