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▲左より、2階建ての建物は、休憩棟・展示資料館。その手前は九十九橋を本公園に再現。中央には柴田神社が建つ。この場所は、北ノ庄城の本丸跡と推定されている(平成22年6月再訪問)

■北庄城データ
【所在地】福井市中央
【地形種類】平城
【築城年】天正3年(1575)
【築城者】柴田勝家
【遺構】勝家が築いた北庄城は、結城秀康が城と城下町を改修・整備する際に取り払われてしまったため、発掘調査で発見された石垣の下部(根石)ぐらいしか残っていない。北庄城の規模・構造などは不明。
【現況】北庄城の本丸跡と推定されている場所には、城址公園と、柴田神社があるだけである。
■ルイス=フロイスと北ノ庄
 ルイス=フロイス(1532〜1597)は、安土桃山時代に30年以上にわたり日本に滞在したイエズス会の司祭である。日本へは、永禄6年(1563)、長崎県の西彼杵郡で第一歩を印し、永禄8年正月に京都に入っている。この時期が織田信長の入京の時期と重なり、信長の知遇を得てからは、西日本を中心に各地を回り布教活動を行うと同時に、そこで知りえた各地の事情を書簡としてヨーロッパへ送り続けた。

 北ノ庄へは、天正8年(1580)5月、同9年4月の2度訪れている。その時のことも書簡として残されており、天守などに石の瓦が葺かれていること、大橋(九十九橋)が勢田の大橋と同じ大きさであること、城下が安土の2倍の広さがあることなど、この時期の北ノ庄を知ることができる貴重な資料となっている。
(北庄城下の推定復原図は展示資料館にて撮影)
■歴史
 織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川(あすわがわ)と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねて来た、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に「此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・」と報告している。

 また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・」と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られる(天守復元イラスト図・現地説明板より)

 勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに務めた。足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと言われる。柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。信長の死後の天正11年(1583)、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ北ノ庄に敗走、城に火を放って自刃した。妻お市は脱出を拒み、娘の茶々・お初・お江与を逃し、勝家とともに果てた。
<北庄から福井へ>
 関ヶ原合戦の功により、家康から越前68万石を与えられた結城秀康(ゆうきひでやす)が初代藩主として入封し、旧北庄城本丸の北側に新城を築いた。本丸は柴田時代よりも北側に移し、4層5階の天守を造営した。本丸と二の丸の縄張は徳川家康がおこなったとも伝えられ、工事は6年にもおよんだ。 北庄藩は、「制外の家」として厚遇された。2代藩主忠直は松平姓に復姓し、3代藩主忠昌のとき、「北」は敗北に通じるとして、「北庄」を「福居(のち福井)」と改める。秀康没後は嫡子の不祥事によって減封を受けたが、断絶することなく、17代で明治維新を迎えた。
<結城秀康画像(展示資料館にて)>
■結城秀康(1574〜1607)
 福井藩初代藩主。徳川家康の次男で、幼名於義丸。天正12年(1584)豊臣秀吉の養子となり、秀吉と家康の名から1字づつをとり秀康と名乗った。

 後に結城家の養子となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、会津の上杉景勝を押さえた。この功により、越前68万石を与えられ、慶長6年(1601)越前に入国した秀康は、北ノ庄城の大改修に着手し、約6年の歳月をかけ城と城下町を完成させた。

▲上空から見た北ノ庄城と福井城の位置関係。JR福井駅から北ノ庄城址まで徒歩5分(写真は、休憩棟・展示資料館にて撮影)

◆柴田勝家・お市の方と三人の娘◆
                
◆柴田勝家(不詳〜1583)
 勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。天正3年(1575)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。信長の亡き後、天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方と共に自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。
《辞世の句》「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」(説明文は現地案内板より。以下同じ)
                
◆お市の方(1547〜1583)
 お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ、1男3女をもうけた。天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。勝家はお市の方に娘と共に城をでるように諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。
《辞世の句》 「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」
◆茶々(1567〜1615)
 お市の方の長女茶々(ちゃちゃ)は淀殿とも呼ばれた。母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘をともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に敗れた時、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に城から逃れた。

 茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1614)徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼と共に大坂城中で自害した。享年49歳と伝えられる。
◆お初(1568〜1633)
 お市の方の二女お初(はつ)は、姉茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、のちに従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600)関ヶ原合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。

 大坂の陣には徳川家康の命を受け大坂城に使者として入り、姉淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633)8月27日江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
◆お江(1573〜1626)
 三女お江(ごう)は豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川二代将軍秀忠の正室となる。秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は三代将軍に、次男忠長は駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井二代藩主松平忠直に嫁いでいる。四女初姫は京極忠高室、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。

 寛永3年(1626)9月15日江戸城において生涯を終えた。享年54歳。

系譜/勝家とお市・三姉妹


柴田神社・北ノ庄城址公園における発掘調査の成果

 現在の福井市街地は、福井城と城下町をうけつぎ発展してきました。福井城内にあたる部分は、官庁施設・繁華街が広がり、今も昔も政治・経済の中心であります。この地にはじめて都市を整備したのは、柴田勝家が北ノ庄を築城したのが始まりです。

 北ノ庄城は、天正3年(1575)に築きはじめ、完成をみないまま、天正11年(1583)に落城したことが記されています。北ノ庄城の範囲は不明ですが、足羽川と吉野川(のちの百間堀)の合流点を背にした築城をおこなっていることが考えられています。

 江戸時代の文献資料には、福井城の鳩之御門の南、百間堀につきでた枡形に天守閣があったと伝えられています。これらの資料に合致する地が、現在の柴田神社にあたります。

 北ノ庄城が落城したあと、結城秀康が新たな北ノ庄城(のちの福井城)を築きます。この城郭については、現存する福井城の絵図で様子がうかがえます。本丸(現在の県庁)を中心に堀が幾重にも巡らされ、堀に囲まれた区画(曲輪)に家臣団の武家屋敷などが建ち並んでいました。

 しかしながら、明治時代の廃城、戦災と福井震災によって福井城の姿は失われてしまいました。福井市教育委員会では、柴田神社の建設工事、柴田公園の整備工事を契機に、福井城そして、伝承されてきた北ノ庄城を確認することを目的として平成5年度から6回にわたり発掘調査を実施しました。下の写真でも見られるように、発掘調査の成果が紹介されている(文は現地資料より)


展示資料館2階から望む城の遺構を標示する北ノ庄城址公園と、後方の多目的広場をもつ柴田公園

▼北ノ庄城址公園案内板


北ノ庄城堀跡〜発掘調査で確認された、福井城下層(1600年以前)の東西方向の幅が25m以上ある南北にに延びる堀跡。堀の規模から、柴田勝家築城の北ノ庄城の堀と考えられる。露出展示している石列は堀南面の石垣。もとは高く積まれていた石垣が、福井城築城の際に取り除かれ、根石のみが残ったものとされる。

拝殿下の石垣〜この石垣は、発掘調査で出土した状態のまま展示されている。当時は、今の石垣よりさらに数段高く積まれていた。


復元された九十九橋〜勝家公の事蹟の一つとして、北ノ庄城址公園に縮小して再現された。石橋の欄干部分は往時の旧石材を使用している。

明治初期の九十九橋〜橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた。橋の記録は朝倉時代にもあるが、柴田勝家公が半石半木(半分が石造りで半分が木造)の橋としたと伝えられる。

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■織田信長に越前支配を任された柴田勝家が築いた北庄城(きたのしょうじょう)はわずか1代8年で焼失。関ヶ原の戦い後、結城秀康(家康次男・北庄藩の藩祖)が越前に入封。旧城を改修し、新たな北庄城を築く。第3代藩主松平忠昌は城名を福居城(のち福井城)と改名。

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